見て来たマライの記録
森本雪楓
昭和十八年五月十日。私はシンガポールに上陸した。長い波止場には沢山の軍需品が陸揚げされインド人やらマライ人の人夫が働いていた。側には沢山の雀が餌を拾っていた。人夫達の色は、皆黒かった。マライ人よりもインド人の方が、もっと黒い。頭に白い布を巻いている。インド人は五十八州の州に応じて服装もマチマチで頭を巻いているのはシーク族という民族で、日本人とは最も気の合った種族である。中国人も多くマライ住民の三分の一程を占めていた。彼等は何れも商業に従事している。インド人の仕事は、牛飼い、羊飼い、人夫等であった。
シンガポールはマライ半島から三町ばかり、橋を隔てて相接する島で、小高い丘がある位で、平坦な町である。人口は八十万位と言っていたが、中々賑やかな街である。港には多くの官公街、商社等が並んでいて、一歩ここを離れると商社が沢山ある。経営者の大部分は中国人であるが、中にはインド人の店もある。商売をしているインド人はシーク族以外の人種で頭は丸刈りの者が多い。中国人は公司という『会社』で色々の商売をしている。これは個人がその所有する品物を持ち寄って、一軒の商店を開く制度である。持ち込まれた商品は、販売した品物に対し一定の利純を納めて代金を受け取るので、ちょうど日本に於ける市場経営の様なものである。市場では、預かった品物の販売価格に応じて一定の利純を差し引き、生産者に代金を支払っている。是が中国人の商法である。
株式会社が資金の都合によってその経営が経営者に一任されるのと、公司が品物によって経営者の販売に一任されるのとの違いがあるが、金か品かの差に過ぎない。中国人には『証人』などというものはない。預かった品物でも預かった金でも帳簿に記入するだけで、終わりである。彼等の間には相互の信頼がある。決して無責任に騙したりはしない。証文がないから知らないなんて言わない。元々証文を渡していないからだ。日本人の様に証文があっても、印が捺してないから無効だなんて、ややこしい事も言わない。これが彼等の特長である。
商売の仕方も違っている。この人は値切ると見ると、始めから高く吹き掛ける。大抵の者は倍額以上に吹き掛けて置く。日本人の特長は、値切ることである。彼等もよく知っているから、決して油断はしていない。十円のものは二十円から三十円と言う。また、値切らない国の人には決して吹きかけたりはしない。日本人は五割位引くと安く買ったと思って喜んでいる。ところが、そうではない。始めに高く吹き掛けてあるから、値引きしてもまだ五割以上の余分を儲けているのである。店の反対に日本人の方は損をしている。全く馬鹿げた話だ。
私も日本へ帰ってから商売をして見たが、やっぱり値段を少しでも値切らないと買わない人がある。近頃では少しずつ減って来たがやはり居る。それ程人を信じないのが日本人である。シンガポールの街を歩いて見て驚いたのは、色々の人種が右往左往して居ることだ。米人、英人、仏人、ポルトガル人等世界の人種博覧会という場所だけのことはある。ある日私はデパートに入って見た。そこには沢山の人が居た。白人は、さっさと品物を見てさっさと買って行く。高いとも安いとも言わない。自分が見て気に入れば、さっさと買って行く。日本人は「マハール(高い)」と言って値切る。マケルと言ってもまだまだ買わない。「レベシキクランアニカ(今少し値段を下げよ)」と言う。先方もすかさず少し負ける。段々下げて行く。これが日本人と中国人の取引である。
また、日本人は良く酒を飲む。酒を飲み、酒に酔うのは日本人とフランス人である。外人の酔っぱらい等見たくても見られない。私は時々宴会にも列席した。マライ人、インド人、中国人等の食事も味わった。皆それぞれの特長がある。こんな席でも酒は少量しか飲まない。彼等は私に言った。
「日本人程あやつり易い国民はない。日本人には酒と女を与えて置けば何でも言う事を聞いてくれる。」と。私はこの言葉を聞いた時、
(日本人とは何てだらしのない国民なんだろう。心して彼等と付き合わなければいけない。)と思った。自分自身、生来酒は飲んだが、彼等とその仲間の席では飲まない様にして付き合った。
建物は皆洋館であるが、一歩橋を渡ってジヨホール州に入ると、ヤシの葉で葺いた、あたかも日本の神殿の様な建物が並んでいる。私はこれを見た時、日本の神殿はマライ建築の様式を備えたものであると思った。
主人達夫婦の居間が神殿なら、家族の居間は神床殿である。床下は高く、階段を五段位上がってから神床殿に上がり、更に奥の院に至る。所々にまた階段があって、それを上がると夫婦達の居間に通ずるのである。何のことはない。日本の神殿をヤシの葉で葺いてあると思えば間違いない。
気温は高く、ちょうど日本の八月か九月位である。しかし少しも蒸さない。日本の梅雨なんか蒸し暑くて何もかも腐ってしまうが、マライの暑さにはこの蒸し暑さが少しもない。一日のうちに、夕立が五回も六回もある。降るのは極めて短時間である。二十分か三十分、少ない時は五分位で止んで仕舞う。雨が止むと涼しい風が吹いて来る。道路という道路は此の雨に綺麗に洗い流されて砂一つない。
マライ人は大体素足である、素足で道路を歩いて素足で部屋に入って来る。少しも洗わない、しかし少しも汚れない。私はマライ人に靴を履かせてみたが、山の中などに入ると皆脱いでしまう。なぜ靴を履かないかと聞いて見ると、素足の方が歩きよいという。それもその筈である。足の底は非常に皮が厚くなっていて、吾々が底の薄くなったゴム靴を履いている様なものである。
道路の両側は何処へ行ってもゴム園である。マライの長さが二百里位あるが、それが皆ゴムの木の林である。薪もゴムの木を割って焚いている。山に入ってもほとんどがゴム園で、堅木の林はほんの僅かである。榕樹の木もある。道端に幾筋もの根を下ろし、それが皆地から生えている様に垂れ下がって、見事なものである。
田んぼには水牛が寝ころんで居る。山には猿も居れば、虎も猪も鹿も居る。鶏などは飼っているものもあれば、山に生まれ山に育った天然のものも居る。私はよく山に行って鳩や鶏を撃ったり猪を撃った。象も一頭撃ち取った。ワニも居る。私の友人宮本君はワニを撃ち獲って鞄を作った。
コーモリ等はとても日本で見られない様な大きなものである。羽を広げて空を飛んでいる大きさは、一メートルから一メートル半位ある。鼠に似ているが、やはり鳥である。撃ち落として食べてみたが、中々美味しい。
猿も四六時中食べた。仕舞には飽きてしまって豚や牛と取り替えた。日本の猪は脂が少ないが、マライの猪は芋類が豊富なので中々肥えている。したがって、脂も多い。
象は誰も食べない。これを食べると人の身体に斑点が出るというのである。それは事実らしい。私の撃った象を食べた人も、斑点が出た様である。味も良くない。象は大きな足跡を残して山道を歩いているので、彼等の通った方角はよく判る。
猪は草むらの中に隠れて居るが、犬を入れて追い出すと逃げて来る。大抵の場合群を成して居る。少ない時でも五、六頭、多いときには二、三十頭も飛び出して来る。野牛も居るが、虎と共に皆に恐れられているので誰も近づかない。鳩も沢山居る。山猫も穴熊もハリネズミも居た。美味しいのは、やはり羊、猪等で、この他のものは皆癖がある。
果物では椰子、バナナ、パパイヤ、マンゴスチーン、コンゴー、チク、ドリアン等がある。椰子の穂は高く、シュロの木の様なもので、どこの家にも植えてある。大きな実が一年中実っている。これを取って中の汁を飲む。約五合位の薄甘い汁が出て、喉の乾きを潤すにはもってこいだ。汁と皮の間には白い膜があってとても美味しく食べられる。外皮は堅いので、色々の細工物の素材にされる。マンゴスチーンは、みかんとりんごを一緒にした様な味で、一寸松ヤニ臭い。チクは柿を甘くした様なものである。
ドリアンは部屋に置くと家中が大便臭くなるが、食べてみると中々美味しい。大きな木に成る果物で、形が頗る醜いのに中身が甘い。昔ドリアンという顔の醜い娘が居た。心はやさしく、頗る良い娘であった。その娘の墓場に生えて実ったのがこのドリアンである。ドリアンという名前はこの娘を象徴して名付けたと聞いている。
野菜には甘藷、茄子、きゅうり、かんてん、サミリブンカ、南京等がある。四季がないので、いつでも露地物ばかり食べている。大根も偶には見られるが、山奥の高原でないと出来ない。トマトは『きんかトマト』だけで内地の様に大きくない。皆肉等に入れて煮られる。
大体暑い所なので、生ものは余り食べない。日本人が刺身を食べるのを見て驚いている。川魚は沢山居る。誰も取らない。公害もないので川も澄んでよく見通される。
ゴム園に入って見ると、木の皮が一尺位剥がされて、茶碗が一個ぶら下げられている。茶碗には白い液体が段々に蓄積され、一杯になるとバケツを持った人夫が集めて歩く。集めた汁はちょうど牛乳の様なもので工場に入ってから煮詰められ、生ゴムが出来上がる。履き物も多く生ゴムが使われている。
食事は米食で、四六時中稲が植えられている。小さい米は粉にひかれて、ピランというものが作られる。カレー食が多く好まれ、唐芥子が沢山使われている。マライ人の弁当に芥子を五本位焼いてやると、大変喜ぶ。
日本人の口に合うのは広東料理で、マライ人、インド人の食物はとても辛くて食べられない。宴会に招待された時は、私の分を特別誂えにして芥子を少なくしてもらった。印度カレーが辛いといわれるが、そんなものではない。とてもとても吾々の口には合わない。
シンガポールからジョホールに入るとマライの酋長が居る。中々権力を持っている。ジョホールからマラッタ、それからメランゴール、ペナンと続いて大都市がある。今のマライ政府があるクアラルンプールは、セランゴール州の中央部にある綺麗な街である。
マラッカ市は英軍の築いた港町で、京都の様な街である。日本人には日本人の酒場がある。夜になると露天が出て、何でも買ったり売ったりしている。中々賑やかなものだ。また、各所にパークと称する場所があって、夜の十時ともなると人々は涼みがてら集まって来る。賭博場もあれば劇場、映画館、その他の遊技場もある。賭けることは大好きで皆やっていた。大体の賭けは十二支を組み合わせて当てる様になっていて、当たれば概ね胴元が共同の出資で支払い、賭博場は皆許可を受けてやっている。資本が掛け金の支払いに足りない時は破産となるが、また新たに資本を出し合って始める。破産の時は資本金も諦めて不平も不満も言わない。またやろう位なもので、二回でも三回でも資本を出す。大体は中国人の経営でまかなっていた。
ヤシの木からは砂糖も取れる。ヤシの実の茎を切って汁を取り、煮詰めて砂糖を作る。油も作る。石鹸も作る。バナナ等はどこの家でも作っている。朝食は牛乳とバナナ二本位である。バナナが熟すと、少し青さがうるんで来る。それをもぎ取って戸棚に入れ、一昼夜くらい置くと黄色くなり、美味しく食べられる。汁を瓶に入れて朝から夕方まで置くと酒も出来る。あまり美味しくはないが飲めないことはない。酔いもする。
ジャングルといっても、そうそう大したものでもない。大小、様々な木が立ち並んで通れない所もあるが、ふつう小さな道があり、通行には困らない。私はスマトラ側は回ったが、印度洋側は回らなかったので、そちらの方の地理は知らない。
住んで見ると生活が単調で、寧ろ日本より住み良い。襯衣五枚、猿股五枚、蚊帳一張り、布一枚があれば一年中暮らせる。十一月が一寸寒さを感じられる月で、夜は毛布を掛けて休む様になる。家は窓の上に風通しを良くする様に欄間が作られてあるから、スコールがあると涼しい風が吹き、暑苦しさは感じない。
泥棒も余り居ない。食べたければヤシもバナナもあるので、食物には別に困らないというのが泥棒等の少ない原因ではないかと思われる。だが全然居ないこともない。ただ感心させられるのは皆がパラン刀という短刀を腰にして歩いているのに、喧嘩をして殴り合ったり切り合ったりすることはない。気違いに刃物と言うが、彼等は常に冷静なのだろうか。切れば切り返されるから喧嘩をしないのであろうか。それにしても日本人とは随分違う様だ。
花はブンガクニン(黄い花)とブンガメラン(赤い花)と言うだけだ。どんな花でも此の名で呼ばれている。佛僧花もあるが、呼び方はない。
言葉も単純だ。ゴザイマス、オハヨウでも、オハヨウゴザイマスでも同じことだ。どちらから言っても通じる。出生年号など聞いてもおよそ三十位とか、およそ四十位と答える。およそとはアガアガである。だからアガアガ三十、アガアガ四十年と答える。四季のない関係から自分の年勘定も充分でない様である。しかし南方ボケとは違う。仕事をさせてもチャンと出来る。頭の良い人も悪い人も居る。それは日本人も同じである。
何分、マライは暑いので仕事をする時間は少ない。また、分業が徹底している。一軒の家に洗濯婦、ボーイ、炊事婦、ドライバー、庭掃除係(クブン)と五人の人間を雇い入れないと、ことが足りない。彼等は持ち場の仕事が終わると、それぞれ自分の好きな内職をして、夜になると皆パークに行って遊んでいた。
また、一夫多妻の国でもある。妻が沢山居る種族の男の地位が高いとされている。そこへ行くと日本人は一夫一婦制であるから、あまりえらくない様に思われている。一夫多妻では、甲から乙、乙から丙と必ず平均に訪問し、平均した待遇を与える必要がある。少しでも不公平があると決して許されない。衣類を与えても皆同一のものを与え、金を与えても同額を与えなければならない。寝泊まりは勿論である。厳としてこの規律は守られていた。
太陽は八時に出て八時に沈む。一年中同じ事の繰り返しだ。南の空には十字星が輝いている。綺麗だ。空は澄んでいる。山は赤いマンガン石で、田圃は黒っぽく土が深い。水田には水牛が座り込んで水をあびている。大きな雷も鳴り、時々ヤシの木のてっぺんに落ちて燃え上がる。現に私も二軒位離れた所に落ちた雷で、吃驚させられ、臥せた一人だ。
月も綺麗だが戦いに敗れ、捕虜となった私にはこよなく淋しかった。また、悲しかった。それが私の想い出である。
マライ人も良い、中国人も良い、印度人も親切だ。兎とワニザメの童話も天照大神の話に似たモハマの話、芝居を見ても筋書きが日本の神話に似ている。元々亜細亜人であるから、その根本は同じである。元は一つの民族に間違いない。色の黒いのは日に焼けたからだ。日本へ連れて来て住まわせたら同じ色合いに成ると思う。長い間の歴史は人々を色々に変えた。ただ、日本との相違点は、総ての事件に結論がないことだ。悔悟の救いがない所が違っている。
サラバマラッカヨと歌って別れてから二十五年になる。見たまま、思い出したままを書き綴ってこの項を終わる。
著者略歴等
勲八等旭日章 賞
勲八等瑞方章 森 本 源 水
御大礼記念章 授 改め健資
明治三十三年十月二十一日生
歩兵第一補充兵
大正五年三月二十六日大分県速見郡杵築町外四カ村立高等小学校卒業
大正六年四月一日高知県香美郡岩村福舟に復帰
大正六年五月一日香美郡山田町東町中山薬局に雇われる
大正九年六月一日同郡野市町西野に於いて一円携田原真鉗同秀明、森田生馬氏と共に薬種商を経営
大正十一年十月十日大阪府巡査拝命教習所入所を命じられる月俸三十円
大正十一年十一月三十日大阪府天満警察署勤務 月俸四十円
大正十二年十一月七日神奈川県出向
同年十一月九日神奈川県巡査拝命 月俸四十五円
大正十一年十一月九日藤沢警察署勤務
昭和二年六月三十日精勤証書授与加俸三円
昭和三年七月二十五日小田原警察署勤務 月俸五十二円 加俸四円
昭和五年七月十一日巡査部長試験合格
昭和五年九月十八日巡査部長拝命
同月付厚木警察署勤務を命じられる 月俸五十三円
昭和七年一月二十日横浜加賀町警察署勤務 交通係を命じられ月手当四円支給
昭和八年二月二十七日警部警部補考試試験合格
昭和八年十一月二十五日任神奈川県警部補伊勢佐木警察署勤務 月俸五十五円加俸六円給与
昭和十一年八月二十五日高津警察署勤務 月俸六十一円給与
昭和十三年二月十五日川崎臨港警察署勤務 剣道初段に列す
同年六月三十日月俸六十八円加俸八円給与
昭和十五年二月三日戸部警察署勤務司法主任を命じられる月手当三円給与
昭和十五年四月一日警察講習所入所を命じられる
昭和十五年七月一日戸部警察署復帰
昭和十七年三月保土ヶ谷警察署勤務を命じられる次席担当
昭和十七年十二月二十五日任神奈川県警部
昭和十七年十二月二十五日陸軍省出向を命じられ同日付陸軍属
昭和十八年四月十八日宇品出航
昭和十八年五月十日 昭南島(シンガポール)上陸
同日付軍政監部治安課勤務を命じられ経済防空警備担任給三級棒陸軍警部
昭和十八年八月警察大学教官を命じられる
昭和十八年十一月マラッカ州治安課勤務を命じられる
昭和十九年四月セントラル警察署長を命じられる給三級棒
昭和十九年十二月ジャシン警察署長兼防衛隊長を命じられる
昭和二十一年二月十三日神奈川県復帰神奈川県警部復職給三級棒
昭和二十一年九月二十五日神奈川県警部退職
昭和二十一年九月二十六日青果商開業
昭和二十六年九月二十五日町立山田青果市場管理人となる
昭和三十八年町立市場倒壊により山田青果市場を単独経営
昭和六十二年一月二十日没
編集後記
私はこの伝記を読んで、著者の思想はともかく、その人となり、優しさを再認識した。祖母(著者の妻)が病の床についた時、少しの間植物人間状態になった時があったが、その時、祖父が私とすれ違いざまに、呟くように言った言葉を、私は今でも覚えている。
「もう、何ちゃーせんでもえいき、とにかく生きちょってくれたらえいに…。」私は祖父を励ますことも出来ずに、ただ『うん』と頷いて、ため息をつくだけだった。
この本を書き終わった当時は、祖父、祖母共に健在で、それなりの平和な生活(祖父の言によれば、多分〝幸せな余生〟)を送っていた。祖母の死を境に、何だか机に向かう祖父の姿が寂しげに見えて仕方がなかった。
この本を出版して、〝何がどうなるということもない〟のだが、〝祖父に書かされていたのかもしれない〟とも思う。祖父は明治生まれの人だったから、原書の言葉の使い方や旧漢字などは、自分にとっては極めて難解であった。原書は二百四十四ページあり、『この字は何か(著者の独特のくせ字、誤字等)』、『この漢字はどういう字か(旧漢字や記憶違いによる誤用、誤字等)』などと、一々母親に確認しながら、一ぺージ打ち込むのに何時間も掛かり、いやになってしまったことも何度かあった。
結局、五十七ページまで打ち込むのに、何年も掛かり、
(これはいつまで経っても出来ないんじゃないか?)と正直思った。そんな時、
「現代仮名遣いに直すくらいやったら、やってあげようか?」と杉村貞枝氏が、請け負ってくれた。五十八ページ以降(全文の約七十六パーセント)の〝解読〟をお願いした。
また、七十ページ以降(全文の約七十一パーセント)は、宮本泰子氏に打ち込みをお願いした。
杉村貞枝、宮本泰子両氏の協力がなければ、到底この本の出版は出来なかった。著者に変わってこの場を借りて、両氏にお礼を申し上げたい。
二〇〇一年一月九日
宮本 裕士
編集者略歴
宮本 裕士(みやもと ひろし)
高知県土佐山田町生まれ。
詩誌『海流』の同人。
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