七拾年の歩み [第三完結篇]
                         森本雪楓

 明治三十三年十月二十一日、私は高知県香美郡岩村福船(今の南国市福舟)に生れた。名は源水と名付けられた。
 当時日本一のこま廻しに松井源水という人がいて、私はこの人と同名であった為、随分他人からひやかされたり、からかわれたりしたものである。
 父は兼吉、母は豊江と言った。家には祖父の與助と兄の香枝が居た。兄と私とは歳が一つしか違わないので、母の忙しさは大変だったと想像が出来る。職業は農業でかなり手広く耕作していた様であるが、私が二歳の時父が相場に失敗し、その日まで住んでいた主家と隠居家を手放し、田畑も大部分を処理して、僅かに残った同村舟渡しの納屋を改造して住居とした様である。私が覚えているのはこの家だけである。改造した家は二間あって裏に物置と大きな池があった。池には大きな鯉が何匹も居て赤や白や黒の背を翻していた。池の縁にはびわの木もあった。私が三歳の時、弟の忠夫が生まれた。
 父は農業を営む傍ら、村の小学校に奉職して体操の教師をしていた。当時の辞令が叔父森本源吉方の物置小舎の二階にあった。月俸は七円、年末手当は五十銭と記されている。それでも家は農業を営んでいたので生活には不自由もしていなかった様である。私はいつも隣の久保田勝君や、北の内田三郎君と遊んだ。もちろん兄も一緒であった。その頃の遊びはこま廻し、凧揚げ、パチンコ等で、時には道端の長く茂った草を結び合わせて人の引掛かるのを見て面白がったものである。もちろんそれが良い事か悪い事か等考えもせず、判断も付かなかったのである。凧は三枚凧、五枚凧などという大きなものがあって、私は三枚凧まで上げた。風の強い時には凧に引き摺られることもあった。
 兄は極めて臆病であった。夜になると何時も私が付いて行った。しばらくするうちに日露戦争が始り、父は日清戦争の時曹長になって居たので、この戦争にも早速應召させられたのである。
 日露戦争では沢山の兵士が戦死したが、父は調理部に勤めていたので無事に凱旋した。村の小学校では大勢の人が集って、
「森本君、万歳、万歳。」と言って父を迎えてくれたことを今でも覚えている。当時私は六歳であった。しかし、どうしたことか父の顔を少しも覚えていない。それと言うのも、父は私の幼い時、失った財産を今にも取返してくる様なことを言って家を出たからである。父は土佐山田町の野地の竹村家から私の家に養子として迎えられた人で、家を出てから大分県に行き、巡査となって杵築警察署に勤めていた。その前には看守もしていた様である。その辞令も叔父森本源吉方の倉庫に残っている。辞令によると月俸八円で教員の時よりも一円だけ良かった様である。母は私に言った。父の顔を見たければ自分の顔に髯を生やして見れば同じだと。
 私が六歳の時、背中に〝ヨウ〟と言う腫物が出来て、放って置くと命にかかわると言うので、父が私と兄とを両方の〝フゴ〟に乗せ土佐山田町の生方病院に担ぎ込んで手術をし、再びフゴに乗せられて帰って来た。また、左横顔にも大きな腫物が出来ていた。祖父は六十四歳の背の高い老人であった。よく私達兄弟を可愛がってくれたので、今でも覚えている。横顔の腫物は余りに膿が出るので、母が時々前の溝に連れて行って、洗ってくれた。今であったら、黴菌が入る等と言って、こんな事はしなかったであろう。
 祖父は私が七歳の時亡くなった。祖父が亡くなってからは、母一人で三人の子供を抱え、農業も出来ないので、私が小学校に入って三ヵ月経った七月頃、叔父に送られ父の許を頼って、宿毛から舟に乗って大分に行った。私達も一緒であった。
 翌日大分の守江港に着いて馬車に乗り、二里餘りの海岸通りを通って杵築町に着いた。父の家は小学校裏山下に当る町通りの、二階家であった。私達はひとまずそこに落着いて住む様になったが、父はその頃、お品という女と同棲していた。
 その為母はこの家に住むことが出来ないので、やむなく弟を連れて小学校下にある菊池写真館に奉公した。私と兄とは父に引取られて、その日から小学校にも通えず、もっぱら父の内職である提灯の骨削りや養蚕用の網を編まされた。網は一枚編むと編み賃として一銭がもらえた。しかし、これは米代として父に渡した。私たち兄弟は毎日十枚ずつ編んで十銭ずつ稼いだ。その頃の米は一升が十銭であったので、私たち兄弟で毎日二升の米代を稼いだ訳である。
 父の月給は八円で、提灯の内職と写真の内職から上がる収入もあって、充分とは行かないまでも生活には困らなかった様である。それでも私達の副食物は漬物二切れであった。私達はこの菰編みが終わらないと、遊びに行くことも許されなかった。思えば、母ほど難儀をした者は居ない。全く気の毒という外ない。
 私が大分に住んでから一ヵ月程経った時、大分県東國東郡奈狩江村狩宿の手島寛英さんという人が来て、私はこの人の養子としてもらわれることになった。子供なんて、親の好みで造られ、自由に育てられもし、売られもし、人に預けられもした。これが当時の風習である。可愛い子には旅をさせよなんて、勝手な理屈をつけて他人に預けて仕舞う。また、これが子供を成功させる道であるとも考えていたのであろう。親と子の愛情なんて、どこにあるのかと聞きたい。僅か八歳、九歳の兄弟に菰を編ませたり、自分は酒魚の食事をして、子供には沢庵だけを与える。子供が何も言わないとしても、果たしてそれで良いのであろうか。
 手島家には私より五歳年上の娘キクエと赤ん坊の仏がいた。私はこの子供達と何の隔たりもない生活に入り、本当に良いと思った。また、手島家では馬を飼っていて、馬の世話は私とキクエ姉さんの仕事であった。朝はキクエ姉さんと裏山から草を刈ってきて藁と一緒にハミ切りに掛けて刻み、糠と一緒に混ぜ合わせ、小量の水を加えて馬に与え、馬舎の掃除をすれば済むのである。
 これが終わると家族一同で朝食をとり、キクエ姉さんに連れられて村の小学校に通うのである。帰る時も必ず待ち合わせ、一緒に帰った。仕事の時も遊ぶ時も一緒で、よく面倒を見てくれた。私はキクエ姉さんが大好きであった。
 狩宿は、昔神武天皇が狩をなされて御泊まりになられた所であると伝えられ、それが狩宿と名付けられた由来だそうである。
 手島家は広い土地を耕作していたので、私とキクエ姉さんとは時々手伝いに行ったこともあったが、主として馬舎から堆肥を運ぶ仕事だけである。その外には何の手伝いも出来ないので、余った時間は馬刀貝や茸取りなどをして遊んだ。馬刀貝は守江港の砂原に行って、三角の穴を見つけて塩を少し入れるとピョンと飛び出して来るので、素早くそれを捕まえるのである。とった貝はゆでて味噌あえにした。大変美味しい貝である。
 また、表の山に、ハツ茸、ゼンザイ、シメジ、センコナバ、松茸等という、茸が出るので、私はキクエ姉さんと連れだって取りに行った。こうした茸は小松林の下にニョキニョキと生え、随分沢山採れた。横手の山には、コー茸と言う茸が生えていた。これはクヌギ林や栗林に生える茸で、真っ黒いものであった。主として甘辛く煮つけるのであるが、ハツ茸や松茸などのあっさりした味とは違い、甘くて苦く、私はあまり好きではなかった。十時と三時には決まったように、芋のゆでたものや団子、饅頭などを食べさせてくれた。
 手島氏夫妻は大変優しく、常に愛情を以て私達を可愛がってくれ、何の不足もなかったのであるが、ある夜、私が夕食の時、爪の間を見ると、真っ黒い馬糞が詰まっていた。生来癇症な私は、これを見たとたんに百姓が嫌になった。私はその夜、家人の寝静まるのを見てそっと抜け出し、父の下に帰った。
 手島家と父の家は二里半ばかりあり、途中人家とてなき山また山であるが、私は夜半の二時頃から父の家を目指して歩き始めた。途中一里位歩いた所で「ガサッ」という音がした時等、私の髪の毛はジンとして逆立ちし、何ともいえない寂しさを感じた。私はこの時とっさに足元の小石を拾って身構えた。するとしばらくして落ち着きを取り戻したので、じっと四方に目を配ったが、いつまで経っても何事も起こらなかった。安心して、再び歩き出し、夜明け前の暗い内に父の住居までたどり着いた。
 私は父に会って、馬糞の一件を話し、家に入れてもらった。父は、
「そんなら何に成りたいか。」と私に質したので、私は、
「そのあたりで何でもよい。勉強の出来るところなら。」と答えた。すると、その後一ヵ月位経って、父は私に寺に入る様に勧めた。そして、杵築町下司の妙鐘寺という日連宗の一等寺に私を入れた。
 その寺には釈泰如という六十歳位の住職と内妻福田マサ、称化泰李、小僧泰信の四人が居た。私はその日から小僧として入門し、髪を剃って衣を着せられた。名も泰源と変えられ、経文を習った。はじめは方便品壽量品で段々と要品全部が教えられ、論語等の講義も受けた。ただ読むだけで、その意味などは少しも判らなかったが、読むだけは一通り読める様になった。その間、学校にも通わず、ただ経文を教えられるのと、寺の雑用をするのみであった。
 寺での生活は、手島家の生活とは似ても似付かない生活であった。午前六時起床、洗顔、炊事、掃除。午前七時、礼拝、読経。七時三十分、朝食。八時、掃除。九時、読経。十時、庭園掃除。十二時、昼食。一時以降は檀家廻り、用足し、農事雑用等、一々定められた通りの日常を繰り返すのであって、休養という時間は午後九時の就寝時間からである。難行苦行、これが僧侶たる者に与えられた義務であるかの如く考えられているのである。どんなに苦しいことにも反抗することは許されず、もしも反抗するような時は、直ちに火箸の洗礼である。おやつも無ければ、三時もない。履物は自分で作り、自分で履く。私は毎日一足ずつのゾウリかワラジを作った。夏になっても冬になっても着た切り雀。寒いからと言って綿入れはない。せいぜい、袷一枚が与えられるだけである。破れれば自分で繕い、自分で洗う。しかし、住職にでも成ると、茶を立てたり、生け花を生けたり、書を楽しみ、画を楽しみ、小僧や称化の生活とは全く別人の様である。私は、
(勉強するんだ。どんな事でも続けなければならない。)と思って辛抱した。
 翌年の四月になった時、『学校へ来なさい』と言われたので行って見ると、
「一年生に岩村で三ヵ月、狩宿で三ヵ月の六ヵ月しか行っていないから、今一度、一年生から出直さなければいけない。」と言われた。私は、
「そんなら止めた。」と言って帰って仕舞った。
 その後、一年経って、『二年生でも良いから学校へ来なさい』と言ってきたので、十歳の四月から杵築小学校に入学し、二年生に通うようになった。結局、一年年下の子供等と勉強したのである。寺で経文と論語を習っていたので、国語では誰にも劣らず、尋常小学校の本はすべて読むことができたが、書くことは至って下手であった。席は小川鼎三君と一緒で、彼とは二年から六年を卒業するまで同じであった。小川君は後年、東北帝国大学で教授を勤めていた。彼は中学を主席で通した位で、何をやらせても満点ばかり取って、後には理学と文学の博士を取っていた。私はその友達の習字を見て、いつも丙ばかり取っていたのが、やがて甲となった。それは筆の持ち方を真似たに過ぎなかった。度忘れをする事もあった。ある時など、
「炎という字を書け。」と言われ、小川君に聞くと、
「火を二つ重ねるんだ。」と言うので、『ヒヒ』と片仮名のヒを二つ重ね、後に思い出しておかしくなったこともある。数学も得意であったが、寺の仕事が多く、一年の三分の一位休んだので暗記ものは不得手であった。
 私が十二歳の時、杵築町に火力発電所が出来た。また、八阪というところに汽車の停車場も出来、日出町、別府町、大分市等へも初めて汽車で行けるようになった。日出町には私の下の寺があったので、度々使いに行ったが、それまではいつも駆け足をさせられていた。汽車が出来てからは、僅か三分で三銭の汽車賃を払うと乗せてくれたので、大変助かった。汽車はシュッポッポ、シュッポッポと煙を吐いて、レールの上をシツチウ、シツチウといって走った。
 発電所には禿頭の社長が居て、私達は電気、電気と言っていた。中々義理堅い人で、発電所は姦しいから近所の人にも気の毒だと言って、発電に使った湯を利用して風呂場をつくって、近所の人に開放した。湯は何時でもあふれていたので、一人一人取り換えて入った。私はこの日から風呂焚きと、ランプ掃除の役目から開放された。杵築には、ガオンという天然に涌いている風呂屋があって、時々上人の供をして、付いて行ったが、半道もあり、冬等は帰りに湯冷めがくるので、あまり行かなかった。父の家の裏にも田の中から、湯が吹き出していたので私達は兄と一緒に足を洗いに行ったことがある。
 寺では田畝五段余りを作っていたので、麦刈り、稲刈り、籾摺り等もした。麦や稲の籾殻が首筋から入り込んで、かゆくて困ったが、着た切り雀なので寺の白衣に着替え、その間に洗濯した。寺の内妻、福田マサは他人から洗い張りを頼まれていたので、私はよく着物や羽織のほどきものを手伝わされた。御陰で着物の縫い方も覚えられ、十二歳の頃には自分が着ていた袷を裏返して着て行ったこともある。
 兄が九歳になった時、私のところを訪ね、
「俺は相続人だから国へ帰らなければならない。おまえは残って勉強せよ。」と言った。
それから幾日か経った後、兄は寺をやめ、酒屋の樽集めの仕事に就き、時々私のところへも訪ねてきた。月給は一円であったか、その後三ヵ月ほど経ったとき、二円もらったが、これでは国へ帰れないから、二人でお菓子を買って食べようと言い出したので、私も喜んで、それからの毎日はお菓子を食べる日が続いた。それからまた一ヵ月ほど過ぎて、一円もらったので、これまたお菓子を買って分けあった。こんな事が酒屋の主人に知れたので、主人は兄に給料を渡さず、五ヵ月間蓄えて、五円渡したそうである。
 兄は五円あれば一人で国許へ帰れると考え、十歳の時、守江港から舟に乗って、国許へ帰ってしまった。兄が国へ帰る前に母は弟を連れて国許に帰り、父は妾と共に転勤になって、杵築には住んでいなかったので、それからの私はまったく一人ぼっちになった。ちょっと寂しい気もしたが、兄が言ったように自分は勉強するんだと思い、それからも落ち着いて経文を習った。兄は国許に帰り着いてから後に、私に酒屋を辞め国許へ帰ったことを知らせる手紙をくれた。その手紙には酒屋でもらった五円の金が余ったので二人で帰れば良かったとも書いてあった。その後の八年間、私は寺に住んで炊事、礼拝、掃除を繰り返していた。たまには母の手紙も届いた。父の消息は少しもなく、どこに住んでいるかも判らなかった。父は私達の事など考えたこともなかったのだろうか。
 それからしばらく経って、兄からの手紙が届いた。その手紙には父が死亡したことを書いてあった。私は涙が出た。泣いていると、お上さんに、
「泣くよりも本堂へ行ってお経をあげなさい。」と言われたので、私は父の霊に向かって読経した。その時の私は十四歳であった。父は私が十三歳の時に亡くなったと知らせて来たのであるから、既に一年が経っていたのである。私の父に対する記憶は前に書いた通りで、私達を育てるでもなく、可愛がるでもなく、専ら妾の言うままに私達を叱るだけであった。父は日曜か休日でないと家には居ない。夜は帰ってくるが、私達が寝静まってからである。また休みの日でも写真を写したり提灯の字を書いていたので私達と話し合うことはなかった。こんな風であったから、顔さえも覚えられず親しみも感じなかった。母もまた、弟一人を連れて国許へ帰り、三年に一度位仮名書きの手紙をくれるだけであった。
 従って、私には育ててくれた手島氏夫妻と妙鐘寺住職夫妻の事しか考えられなかった、しかもこの両家を比較し、手島家の愛情ある育て方と、住職夫妻の冷酷な処遇と、あまりにも違いすぎた生活を思い出し、手島夫妻への感謝の気持ちを持ち続け、爾来四十年の永きに亙って音信をしたのに引き替え、寺の方へは一向に御無沙汰をしてしまった。
 こんな風であったから、手島氏夫妻の死を弔ったのに、住職の死は知らず仕舞いであった。一方は三カ月、片方は九年の長さに亙って私を育てたのに、どうして私の感情がかくも違ったのであろう。要は愛情の問題であろう。親は子を殴ってもその眼に涙が見られる。他人は涙がない。何故であろう。思いやりのある殴り方と思いやりのない殴り方。そこに生ずる感謝と怨恨。一方は感謝され、一方は恨まれる。然からば、我らの選ばなければならない道は一つであると思う。愛情のない育て方をする位なら、初めから他人の子を預かったり育てたりすべきではない。私が父の墓をと言った時、兄は、
「別に育ててくれたのでもないんだ。建てる必要はない。」と言った。私はその時、
「いや、生んでくれた。しかも、今の我々は自分で働き、自分の力で生きて行ける。これは親が私達に生きる道を学ばせたからである。だから当然墓は建てるべきであり、また、祭るべきだ。」と言って、しばらく兄の承認を求めたことがある。このころ、私は既に四十才を過ぎ、子供の時と全く考え方が違っていたせいもある。幼少の頃であったら、父を恨みこそすれ、感謝などしなかったであろう。
 私は、今別に好き嫌いがない。しかし、子供の頃は魚とラッキョウが大嫌いであった。ある日、兎狩りに行って山の中を駆け回って、もう腹が減ってへとへとになっていた。この時、弁当を開いてみると、私の最も嫌いであったラッキョウが入っていた。私はどうしようかと思ったが、仕方がないので食べてみると、これが誠においしかった。これで初めて感じた事は、腹さえ減っていれば何でもおいしく食べられるということであった。それからの私は何でも食べるようになり、今でも物に好き嫌いがない。特別好きなものといえば、菓子であるが、六十三歳から糖尿病を患い、これは医師から食べることを禁じられてしまった。しかし、格別不自由は感じない。大分余談に入ってしまった様である。
 さて、私は寺にあって小学校に通った。四年生の時、それまで四年卒業であったものが、六年卒業と二年間延長された。住職は私が卒業したら、中学校に入れてくれると約束した。私は喜んで働き、喜んで勉強した。宿題等は夢の中で解決し、朝になってやってみると必ず出来上がったものである。はたして小学校も無事に卒業することになったので、
「中学校に入れて下さい。」と、住職に頼んだところ、住職は、
「兄弟子が大学に入ったので、お前は高等小学校に入れ、そのうちに兄弟子が卒業するから、そしたら中学に通わせてやる。」と言った。この時ほど残念に思ったことはなかったが、止むを得ないので、高等科に進んだ。そして高等小学校も終わった。しかし、この前の年、福田マサ氏が養子として邦次という人をもらい受けこれを師範学校に入れた為、また私の中学行きの話が立ち消えとなってしまった。私はこの時、『寺を継ぐ者は弟子であって、邦次氏は寺と関係のない福田家を継ぐ者である。だから、当然私の方を中学に入れるべきではないか』と考え、住職と相談したが、住職は兄弟子の大学卒業を理由に私を中学へ入学させようとはしなかった。小学校卒業の時も虚言を言われ、今また約束の時期が来ているのにかかわらず、なお中学への進学を拒む住職に対し、私は著しい怒りを感じた。ここで日出町にある下寺の住職に相談したところ、下寺の住職は、
「私の所へ来なさい。中学へ通わせてあげる。」と言った。私は帰って妙鐘寺の住職に話し、承認を求めたが、それは許されず、専ら住職の代理として檀家廻りをさせられた。
 私は望み無き生活に落胆し、ある日、住職に対し、
「還俗して、国許へ帰られるようにしてもらいたい。」と申し入れた。すると、住職は
「帰りたければ、帰れ。」と言ったので、
「それでは帰らせて戴きますが、旅費を下さい。」と申し込むと、
「旅費はやらない。」と答えた。私は、
「よろしい。それなら寺を焼いて、私も出て行く。」と言い返した。その時私は十七歳になっていた。学校をやめてからは、専ら習字に専念し、他の仕事は何もせず炊事だけをして過ごしていたのである。
 私が〝寺を焼いて〟と言ったことは住職に非常なショックを与え、住職は脅威を感じ、隣家の帯刀仁吉氏を呼んで旅費五円を託し、船に乗り込むまで、側を離れないよう指示し、守江港まで私を送った。私は途中、二軒の檀家に立ち寄り、別れを告げて読経し、御布施として三十銭ずつをもらったので、帯刀氏の預かっていた金と合わせ五円六十銭を受け取り、一円六十銭で船の切符を買って、乗船することになった。かくて、帯刀氏とも別れ、考えてみると残金四円では到底国許へ帰れない。どうすれば良いか色々思案し、
(よし、神戸か大阪へ行って働こう。そして金を貯めてから帰ったら良いではないか。)と決心し、その夜は寝ついた。翌朝、船は高浜港に着き、それから神戸方面に行く人と、四国路に下りる人が一々住所氏名を名乗って、下船することになった。この時、私のすぐ前を五十歳くらいの男の人が高知市中島町上一丁目、富田幸造と名乗って下船した。私はこの時、即座に
(この人は高知に帰るのだ。よし、つけてみよう。)と思い、後を追った。この人は高浜駅から森松までの切符を買った。私も同じ切符を買って、なおもついて行くとその人は不審に思って私に聞いた。
「小僧さんはどこへ行くのか。」と。私は、
「高知へ帰るのだが、旅費が僅かしかないのであなたについてきた。余りの金で高知まで帰れましょうか。」と。
すると富田氏は、
「よろしい。良い伽が出来た。一緒に連れて行ってあげよう。そのかわり毎日十里以上歩くんだぞ。」と言った。私は、
「よろしい。」と答えて下駄履きのその人について歩いた。途中十銭の寿司を買い、昼食をとり、再び歩いて木賃宿に泊まった。宿銭は夜と朝の食事を合わせて二十銭で、土佐路へ向かうにつれて、五銭ずつ値が上がっていった。
 翌日は昼食に三銭の豆腐を一丁食べた。寿司と豆腐を交互に食べながら昼を過ごし、四日の宿銭を払ってなお残りがあったので、川口から三十銭の船賃を払って急流を矢のように走りながら伊野町に着いた。船頭が舟の両端に乗り込んで、上手に竹竿で舟を操りながら、岩と岩の間をすり抜けていった。こうして土佐に着き、なお二円あまり残っていた。工夫をすれば少ない金でも充分国許まで帰れることを知らされた。
 高知市に着いてからは富田さんの家に立ち寄った。富田家は門構えの立派な家で、奥さんが出て来て丁寧に迎えてくれた。とても寿司や豆腐で昼食を済ませる様な人が所有している家には見えなかった。富田さんは金山を探して全国を廻っている人だった。ここには一時間位居て、感謝の礼を捧げながら別れを告げ、電車で後免駅に向かった。
 後免についてからは人力車に乗って、岩村に辿り着き、叔父森本源吉を頼って行き、母の居所を尋ねたところ、
「今は働きに行っている。夕方には帰るから待っているように。」と言われ、母の帰りを待った。叔父夫婦も喜んで私を迎えてくれた。夕方、母が仕事から帰って来、久々の対面に涙を流して喜んでくれた。また、兄も弟も来、みんな喜んでくれた。積もる話の数々も語られたが、土佐の方言と大分の方言が交互に入り交じって、一向に通じないので、母がその都度通訳をしてくれた。
 そのころの母は農家の日雇いをしながら、兄と弟に仕送りをしていた。兄と弟は鍛冶屋の弟子に入り、一方は包丁、一方は鎌を造っていた。給料は二十一歳が来ないともらえないので、母の仕送りは必要であった。この時、私も大工の弟子にという話があったが、それでは母の負担が増えて大変だと言われ、私は土佐山田町東町の大山薬局に店員として住み込むことになった。私の月給は六円で、自転車に乗れなかったので、私の仕事は専ら翌日配達する薬を揃えたり、売ったりすることであった。その後、八王子神社の境内に行って、毎晩自転車の稽古をし、五日くらい経って、次第に乗れるようになった。その夜、私は嬉しくなって岩村に向かったところ、中野の坂で老人と衝突してしまい、大変叱られた。何度謝っても告訴すると言われ、許してくれそうになかったが、叔父が私に代わって謝りに行ってくれたので、無事に収まった。
 翌日からは御得意先の医師に注文を取りに行った。医師によっては
「お前の店は値が高い。」等と言う人があった。こんな時、高いと言われると腹が立って喧嘩をしたくなる。高ければ買わなければ良い。私は、
「安いと思う物だけ買いなさい。」と言って、強いて売り込むようなことはしなかった。初めのうちは変わった小僧だと言ってあまり相手にされなかったが、このことが一般に知れると他の店員よりも信用を受け、私が注文取りに行くのを待ってくれるようになった。要は嘘のない商法を以て、堅実に取引をすれば良いという考え方から出発したのが私の考えで、値段の高下は取引の状況を察知して考えれば良い。高ければ、買うなと言うのだから相手も買わない。買わないのは高いからだと考え、相場を研究して対応するのである。
 大山家には主人夫婦と老母、娘四人が居た。店員は私のほか、一円、池知、百々の四名であった。主人は町会議員をしていた。元は漢字の先生をしていたとかで、毎日漢文を読んだり、詩を作ったりしていた。商売はあまり熱心でなく、専ら妻に委せていた。私が同家に奉公して三年経った時、百々という店員が、妻の肺病を理由に退職させられた。私はその百々氏が退職させられるまでの経過を、奥の間に居る夫婦の相談から聞き、知っていた。真面目な良い店員であったが、妻の肺病の伝染を主人夫婦より恐れられたのである。私はこの話を聞いていたから、百々氏に支店を出してあげるよう勧めてみたが、聞き入れてもらえなかった。結局、百々氏は大山家に十七年間勤めていた人であるが、妻が肺を患ったからという名目で退職させられ、支店を出してもらえなかったばかりか、退職金さえも出してもらえなかったのである。
 この事があってから、私は大山家に止まることに何の希望も持てないことを知らされたので、今のうちに他に転向する事が必要であると考えた。その頃大林区署で主事を募集していたので、早速履歴書をしたためて応募した。その後、林区より叔父の下に紹介があり、
「この子は中々字が上手だから採用したいと言われた。」と聞いた。しかし、一向に採用の通知が来ないので、不審に思って聞いてみると、叔父の調査を済まして、更に大山家を訪ねた結果、大山の主人に、
「林区に採用されては私の店で困る。」と反対されたので、今回は不採用と決まったということであった。
 いかに自分の店が困るからと雖も、他人の希望を押さえ、これを阻止するが如き行動の許さるべきでないと思ったが、大山の主人は当時の町会議員であり、民主党の重要人物であったため、そんなことが平然として行われたのである。その頃の政界は総ての官界を一律に牛耳っていたのである。
 私はやむなく林区志望をあきらめ、大山家に止まったのであるが、百々氏の解雇を考えると、何としても辞めたい。それには薬種商を経営すること以外に対処する方法がない。まず資本家を見つけて、一円氏や池氏と共に事業を始めるのだと考え、一円氏に話し、一円氏の伝によって野市町の浜田医師を説き、資本金三万円を借りることに成功した。保証人には叔父森本源吉氏を選び、その承諾を得た旨を資本主に伝え、いよいよここに自分たちの念願した薬種商が開業出来ることになった。
 池氏も一円氏も大山家を辞め、池氏は石屋を開業し、一円氏は私と共に田原薬舗を始めたのである。しかし、一度に大山家を退職したのでは御世話になった大山家の店にも差し支えるので、私だけが残り、一円氏は開業までの商品の仕入れ、薬剤師の雇い入れ、建物の建設に当たることになった。私はここで大山家の主人と相談し、期間を三ヵ月と定め、後任の店員を養成することを約し、従弟に当たる坂本皇馬、新規雇用の水田勝義という二人の店員に、色々と薬品の取り扱い、御得意先等を教え込んだのである。
 この頃大山家の主人は、時の総理大臣浜口雄幸氏を推して選挙違反に問われ、禁錮三ヵ月の言い渡しを受けていた。この頃の大山家は、腸チフスのため妻女を亡くし、娘達は皆学校に通い、家には主人と老婆が残っていたのである。もしも主人が服役すると、たちまち店の運営にも差し支える状態であったが、刑は既に確定して居たので服役する以外に方法がなかった。そこで主人は留守中における三ヵ月の店経営方を私に依託したのである。私は仮令三ヵ月の短期間であったとしても、たちまち困る店の運営を見捨て、去ることも出来ないと考え、これらを了承し、店員の育成と店の経営に当たった。
 それから二ヵ月経ったとき、主人は仮出所の恩典が与えられて帰って来た。その時、私はちょうど帳簿整理をしていたので、その姿勢で、
「お帰りなさいませ」と挨拶を交わし、他の店員はいずれも店先で両手を組み、同じく挨拶を交わした。しかるに、主人は私を部屋に呼び、
「おまえ達は主人が帰ってきても挨拶をしないか!」と激昂した。私はこの時、自分の態度と店員の態度を説明し、
「私は失礼とは思ったが、ちょうど忙しい最中であったから、帳場からそのまま御挨拶をしました。それよりも『留守中は忙しかったろうね』と一言声をかけてくれたら、なんぼか店員達が喜んだでしょう。私はあなたの留守を預かっただけだから、『お帰り』となった。今日で私の用事も終わりました。本日限りお暇を戴いて帰りますから、よろしく願います。」と言った。すると主人はあわてて、
「まあまあ待ってくれ。実は刑務所で考えたのだが、自分は出所したら朝鮮に行き、自転車屋を開業したいと思ったので、その準備期間として、ぜひとも約束の三ヵ月間は店に残ってもらいたい。」と言うので、不本意ではあったが、やむなくこれを承諾して、期間を後一ヵ月と決めて残留した。しかし、主人は一ヵ月経っても一向に朝鮮には出発せず、奥に入って寝ているだけであった。私はその時、これは私を店に止まらせる口実に過ぎないと察し、約束の期日が終わると早速暇を告げて、田原薬局に向かった。この時、私は二十歳であった。
 田原薬局には一円氏の他、薬剤師側島の一店員、門田隧が居た。ここで陣容が整ったのでいよいよ開業ということになった。お得意というものは、主人よりも店員についている。二十五年の永きにわたってお得意廻りをしていた一円氏と、三年ではあったが変わり者で通っていた私の二人の得意先であった医師がほとんど私たちの方に寝返り、たちまちにして大繁盛となった。御陰でその年の決算には、私も一円氏も給料の外にそれぞれ七百円の手取りを得ることができた。
 私が田原薬舗を始めて三カ月経った時であった。兄は弟子入り期間を終わり、給料生活に入るか自分で開業するかを決めなければならないことになった。私と叔父は『給料生活に入り、資金を蓄えてから開業したら』と勧めたが、兄は『早速開業したい』と言い、両者の間の意見の相違は埋まらなかった。兄は『今の時期に開業する方が利益が多い』と頑張ったので、やむなく私が月給百八十円六ヵ月分を先借りして職場を作り、更に貯金四十五円を下ろして鉄床を買い、師匠よりは鞴を貰って一応場所と道具は支度が整った。その後、叔父に鉄材仕入れの金子を貸してもらって、兄はいよいよ開業というところまでこぎつけたのである。
 私の方は月給六ヵ月も前借りしているので次の月からの月給が入らず、生活にも差し支える状況になってしまった。やむなく内職として化粧品販売をすることにした。医師の注文取りに行ったついでに奥さんや看護婦さん相手に化粧品を販売し、その利益で当面の生活を続けることにしたのである。しかし、当初考えていたより化粧品はよく売れたので、結構生活は支えられた。
 すると今度は兄が嫁を貰いたいと言い出した。調べてみると猶予できない状態であると判り、用意も調わなかったが、とにかく貰い請け、叔父の援助で簡単な儀式を済ませ、かつて父が売り払った隠居屋を借りて住居とし、ここに兄夫婦と母を住まわせることとした。
 かくて一年経過後、今度は兄が家を建てたいと言い出した。
「準備は良いのか。」と聞くと、
「資金はできている。古家も買ってある。」と言う。私は
「せっかく建てるなら、新築にした方が得策だ。」と言ってみたが、兄は、
「すでに古家を買ってあるから取り壊して建てるんだ。」と言い張って、後へ引かなかった。
 建て直しの結果は新築したよりも高くなり、兄は後悔していた。
 開業わずか一年ではあったが、仕事については『開業を急いだ兄に先見の明があった』という外はなく、兄の基礎は固まった。
 今度は私の番になったが、何の資格や技術も持たない私には、薬剤師の免許を取るか、朝鮮に行って現地開業の免許を取って、三年後、内地に帰って薬局を開業するかのいずれかの道が残されているに過ぎなかった。その日からの私は、大山家奉公時以来続けていたこと、すなわち中学講義と早稲田大学の講義録を読むことに加え、物理、化学、薬学の勉強にも努めた。医学の方は浜田医師の所有する内科の本を借りて勉強する外、実地についても患者に接し、一々説明を受けながら聴診したり、患者の洗浄に当たったりして研究を重ねた。
 薬剤師となるには検定試験に合格し、その免状を取らなければならない。しかし、その受験資格を得るためには、大正十年度に一回受験し、その認定を受けなければならなかった。大正十年度に一度受験した者に限り、大正十六年までの受験資格が与えられることになっていたので、私は是非とも大正十年度の試験だけは受けておきたいと思った。しかし、春の試験までには、まだまだ準備が不足であるから、秋の第二回の試験には間に合うよう、日夜一生懸命に勉強した。また、医師の方もあきらめたわけではないので、この方も引き続き研究を重ね、〝時間はいくらあっても足りない〟という状況が続いた。
 こうして大体の準備を整え、大正十年の秋の薬剤師試験を受けるべく、赤岡署を経て高知県に受験志願署を提出した。然るに、この願書は返送されて来たのである。その理由は、『大正十年度の試験は春期試験だけで、秋期試験はこれを行わない』ということであった。私は、再び赤岡署に行き、
「毎年二回の試験が行われているのに、本年だけ秋の試験が無いというのは、いかにも不審である。今一度願書の受付をしてもらいたい。」と言って、再度願書を提出したのである。しかし、これも前と同じように付箋をつけて返送されてしまった。誠に残念であった。
 そんなある日、注文取りのため高知市に行ったところ、ちょうど朝鮮巡査の採用試験があったので、私は早速筆紙を買い求めて受験した。すると見事に合格したのであるが、この時は受験したというだけで、朝鮮に渡る準備もしておらず、覚悟も定めて居なかったので、たちまち困ってしまい、試験官に詫びて帰らせてもらった。
 元来、私は〝やりかけた仕事はあくまでやり通す〟というのが信条であった。やる以上はどこまでもそれに打ち込める準備と覚悟を必要としたのである。その時は準備さえできてないのに巡査となり、その後、目標としていた医師免状を得ることは至難であると考え、思い止まったのである。
 その後、三カ月程経って、大阪府巡査の採用試験が赤岡署で行われた。この時はちょうど良いチャンスだと考え受験したところ、三十七名のうち二名の合格者が選定された。私と甲藤茂樹氏が合格者であった。
 その時の口頭試問で、『なぜ君は巡査を志願したか』という質問に、私は、
「巡査というものは威張ってばかり居る。私は威張らない巡査となり、威張らない巡査を作りたいと思って志願をした。」と答え、大変気に入られた。なぜ威張らない巡査を作りたいかと言えば、私は、〝相手が怒ればこれに対し必ず反抗する〟という性格を持っている。従って、他の人も左様であろう。ただ巡査が威張って他人を叱り、違反者を摘発するのみでは、決して社会の浄化はできない。叱るのではなく、教えるのである。これが違反者を無くし、反抗心を抑圧するのではないかと考えていた。
 今一つ、かつて私が十七歳の時、自転車に乗ったまま土佐山田町の町長松尾冨功録氏に対し、
「お早う御座います。」と頭を下げると、町長は羽織袴で登庁する途中であったが、丁寧に頭を下げ容易に頭を上げない。この時、私は自転車から下りて再び頭を下げなおしたことがある。昔から〝実るほど頭を垂れる稲穂かな〟という言葉があるが、僅か十七歳の店員に対し、町長となった人が斯くも丁寧に頭を垂れたことに一方ならぬ感銘を受け、何か言われると必ず反発してきた私には良き教訓となった。この教訓は一生忘れることの出来ないもので、それが私の行動の上に大きな変化をもたらしたのである。私は今でも松尾氏に敬服し、巡査となってからも警部に昇格しても、この教訓を生かすべく努力もし、話もして、部下の指導に当たってきたのであるが、〝言うは易く行うは難し〟で、中々松尾氏の様な訳には行かなかった。
 後になって、同氏の甥が土佐山田町の町長に成った時、私は度々同町長に言った。
「冨功録さんの様な人は又と現れない。実に偉い人であった。私には真似をしたくても真似さえできない。あなたも甥として町長に成った以上、伯父を見習うべきだ。」と。
 こんな人の行動を見ていた私は、自分だけが最も偉い人の様に思っている巡査の行動が嫌いでたまらなかった。これが私をして今の巡査が気に入らないから威張らない巡査を作りたいと答えさせる動機となったのである。
 私が合格した時の高岡署の同期生中に、今高知県の知事となって活躍されている溝渕増己氏も居た。溝渕氏は私より十日早く教習所に入り、成績も優秀であった。後には高文を採りトントン拍子に出世した。私の目的は薬剤師にあったので、警察官としての出世は考えず、もっぱら中卒の資格を取り、薬専(薬学専門学校)入学の道を志して勉強した。もっとも仕事が警察官であるから、法律は知っておく必要があったので、山岡萬之助氏の刑法や上杉慎吉氏の憲法を選んで勉強した。上杉氏の憲法は天皇を中心とする主張で、天皇は最高の道徳であると説くのが特長であった。
 私は教習所に他の人より十日遅れて入所したため、成績も良い方ではなかった。教習期間は二ヵ月であるが、私は五十日で卒業した。教習所を卒業すると天満警察署に配属され、同僚の宮下、三宅の両君と共に赴任した。それからは実務習修に入り、三ヵ月の期間を一生懸命に学んだものである。実務習修では極めて良い成績を収め、六ヵ月位過ぎた頃には、古参の人にも劣らない段階にまで達していた。田舎者の私は教習所に入るにも人力車で駆けつけた位であったが、この頃になると市内の電車路線や、市内の地図も一通り頭に入り、道案内も充分出来る様になった。
 天満署では外勤勤務を命じられ、天満橋、天神橋、青柳橋、南森町等の交番を転々とした。交番勤務は、立ち番、巡回、休憩を繰り返し、夜間は、立ち番、巡回、休憩、休憩となって、二時間の休憩が与えられた。しかし、慣れない私には中々の勤務で、夜半等は目は見えず、耳は聞こえず、ひたすら言われた通りの勤務に服するに過ぎなかった。偶々監督者が回って来ても、気づかずに、敬礼さえも怠る始末であった。生来寝付きの悪い私は、二時間の休憩ではほとんど寝入ることが出来なかった。しかし、これも馴れてしまうと、それほどでもなかった。
 こうして半年程経った時、叔父から嫁を貰わないかと言って手紙が来た。相手は叔父の娘、千勢であった。千勢と私は兄妹の様にして育って来たので、気心もよく判っているし、早急に承諾して返信した。しかし、姉の千代恵夫妻が、もしも私と千勢が結婚した暁には、その相続権を奪われるのではないかと心配し始めて、これに反対していると聞いた。それでは自分のために他人の家庭を破壊する虞れが生じるので、この話は取りやめることにした。
 当時の私は三十歳まで独身を通し、充分な蓄えを残した後に結婚したいと考えていたので、その後は嫁のこと等考えもしなかった。叔父はそんな私に度々手紙をくれて、人が世話する時には貰っておくべきだと勧めてくれたので、遂に嫁の話は叔父に一任することにした。
 その後、一円氏の世話で山田の産婆物部の長女兎喜を貰わないかと話があった。相方共一面識もなかったが、叔父からは良い娘であると手紙が届き、私もこれらを承け、話は纏まった。
 そしたら何時結婚式をするかということになり、休暇の都合もあり、一年位待ってもらいたいと返事をした。しかし、それではあまりにも遅すぎると言われ、結局、僅か一週間の休暇を利用して帰郷し、結婚式を挙げた。仲人は一円氏と弥益氏であったが、弥益氏が独身であった為、秦親芳夫妻を正式仲人とした。ちょうど暑い盛りであったから、私は白の洋服、妻は薄い縞の着物を着ていた。私はこの日初めて妻に逢い、あまりにも太っているのに驚いたくらいで、妻も私を初めて見るので同じことであったと思う。こうして固めの杯を交わし、叔父の家の二階を借りて一夜を明かし、堅く、お互いの一生を仲睦まじく暮らす様、誓いあった。
 結婚式の費用は僅か四十五円であったが、物価の安い頃なので、それでも近所の人や親族が集まって三日間飲み続けた。こうして三日目、親族の挨拶廻りも終わり、四日目には早くも大阪に向かって二人きりの旅が始まった。途中叔父や母兄弟を交えた記念撮影をして船に乗り込んだ。船では私達の為に、隅の広い場所が用意されていた。
 翌朝は大阪に着いて、天満橋五丁目に借りてあった新居に到着し、新婚の睦まじい生活が始まった。その頃はお互いに、ただ楽しい結婚生活に酔いしれ、どうしたら良い生活が出来るか等と考えるでもなく、休みの日には手を取り合って大阪市内の見物や買い物に日々を送った。そのうちに持ち合わせの金も段々少なくなり、小遣い銭にも不自由を来たしたので、妻は習い覚えて居たミシンを活用し、近所の会社からシャツ、ズボン等を借りて来て縫い上げ、一枚十五銭から二十銭の縫い賃を稼いだ。
 私は給料が四十円、諸手当が十四円五十銭入るので、これを妻に渡し、その中から煙草銭や薬代等として、一日十銭ずつを貰っていた。時には月給が足りない事もあった為、月々の予算表や日計表を作って妻に渡したりした。何しろ初めての結婚生活なので、諸経費がどの様にかかるのか判らない。私が一人の時は家賃を払い、自炊して、尚二十五円余ったので、二人に成っても五十円あれば充分生活して行ける位に考えて居たが、中々計算通りには行かないのが生活である。私は、三十歳迄独身で過ごし、預金が二千円以上になった時に結婚式を挙げたいと思っていた。その計画が初歩からくずれ、楽しいはずの生活が、ただただ苦しい生活となり、妻に買い与えられたものは、僅かに金の指輪一個と銘仙の着物が一枚位であった。買い与えたいものがあっても賞与が入るまでは何一つ与えることも出来なかった。
 それでも二人は仲睦まじく、喧嘩一つすることもなく過ごすことが出来た。元々私達は貧乏生活に馴れていたから、それが二人に不平も不満も感じさせなかったのであろう。妻は八歳頃から父を失って叔母夫婦に育てられ、私は八歳から両親と別れ、専ら他人の下に育てられ、苦労に苦労を重ねて来たので、結婚後の生活は互いに頼り合える生活であったから、そこに満足感が生まれ、お互いを楽しめる生活としたのであろう。一人暮らしの時には、もしも患ったらどうしよう、等と考えたことがあったが、結婚後にはそんな心配も無くなり、安心と信頼感が生まれて来たので、その後二十四年経っても喧嘩一つ無く、本当に睦まじい生活が送れたのである。
 七十年の今日となってはお互いの抑制力がなくなり、時には争うこともあるが、それは生活のゆとりが得られない商人の生活から生まれるものであり、永きに亙る生活上の不満も省みられて争われるのである。しかし、二人の間には最早愛情もなく成ったのではないかと考えることは間違っている。お互いの心の底に、楽しかった昔を思い、同情し合う心は忘れないのである。
 さて私の収入は生活費、妻の収入は自由費として、総てを妻に一任した生活を続けて、大正十二年九月一日を迎え、この日私は非番で家に居た。午前十一時五十二分、私と妻とが二階で昼食をとっていた時、突然驚く様な大地震に見舞われた。地面は二メートル位、前に進み、後ろに退き、電柱は四十五度位に傾いて前後した。人々は驚き、屋外に飛び出した。私も妻と共に広い通りを選んで立って居た。約五分続いた。人々はただ吃驚して、何も語れなかった。地震は水平動で極めてゆっくりと揺れたので格別何の被害も起こらなかった。
 この地震は関東を中心とする大地震で、東京横浜方面では水平動の外に上下動が重なり、家という家はほとんど倒れ、あまつさえ大火災が発生し、多くの死傷者を出した。加うるに朝鮮人騒動が発生し、虐殺者も多数生じ、収拾付かざる状態が発生したと報道され、警察官の応援部隊が編成された。それが私達の運命を変える基になろうとは考えもしなかったが、遂にその時はやって来た。私は第二回の応援部隊として神奈川県に出向させられたのだ。
 私は薬剤師となることが目的であったので、東京を志願した。東京には私の資本主であった森田正馬氏が居て、慈恵医科大学の教授を務めていた。私はこの人を頼り薬学部への入学を願っていたのであるが、結果は神奈川県への出向となり、私の目的は遂に挫折してしまった。やむなく、私は警察官として一生を送るべく決意を新たにし、その後は専ら普通学と法律の勉強に切り替えた。
 神奈川へ出向して見ると、横浜は全くの焼け野原で、彼方此方に俄造りのバラックが建っていた。私は、叔父一家が鎌倉に住んでいた関係で、藤沢警察署に配属されたので、一旦叔父の家に落ち着き、電車で通勤することになった。叔父夫婦は元々妻を育てた人であるから、私達の訪問を喜んで迎えてくれた。同家はクリスチャン一家で、子女四人と六人暮らし。それに私達二人を加え、急に八人暮らしとなったが、幸いに階下は倒壊していたが二階が残ったので、これを住居としたのである。叔父夫婦は信仰心に厚く、食事毎に神に祈りを捧げ、家族一同アーメンと称えて後、食事に入るのである。この夫婦は本当に親しみのある良い夫婦であった。まして私の妻の育ての親であったから、自分の子供と何の隔てもなく、私達を自分の子供が帰って来た様に喜んでもてなしてくれた。
 子供等は四人居たが、これも幼少の頃から一緒に育った人達で、本当に親しみが持てた。私達は神奈川在住中は常に同家を訪問し、自分の実家のように振る舞っていた。鎌倉に落ち着いてからは電車に乗って、毎日江ノ島を通り、左に遠く富士を眺めながら通勤した。私は署在勤務で、主として電話を担当した。電話も中々忙しかったが、直ぐに馴れてテキパキと片付く様になった。また謄写版の原板を書いたり印刷することも教えられ、これはほとんど私の受け持ちとなってしまった。
 こうして約一ヵ月経った時、町立のバラックが建てられたので、私達はここに引っ越した。バラックは十軒長屋で、四分板一枚が各戸の境界で節穴からは隣の様子が伺われ、床には荒筵が敷かれ、畳はなかったが、二人だけの生活には差し支えなかった。
 この頃、朝鮮に居た兄の物部光久が、鶏を飼う様にと言って金子二円を贈ってくれたので、早速ひよこを買って飼ってみた。卵は一個が三銭位に売れた。魚は卵を食べるよりも安かった。藤沢は江ノ島とも近く、茅ヶ崎、辻堂、鵠沼という漁場を控えていたので、新鮮な魚が豊富であった。私達は卵を売っては魚を買った。私は藤沢でトマトという野菜を初めて知った。青臭い野菜であったが、砂糖を付けて食べると中々おいしかった。その後トマトが大変好きになって、ソースを掛けたり塩を振って食べる様になった。
 私達はこのバラックで妻の妊娠を知った。そこで大急ぎで住宅を探し、同町の遊郭裏にようやく見つけて、一戸建ての住居に引き移った。翌大正十三年八月五日、長男が生まれた。何と名付けようかと色々考えた末、四十一画の成功運を選んで美輝と名付けたが、後日それがあまり良くないと知り、祥照と改めた。長男が生まれた時、私達は何の準備もしていなかったので、いよいよ生まれるという寸前、鎌倉から叔母を呼び寄せ単衣物を裁ってもらうやら、おしめを作るやらで、てんてこ舞いをした。幸い私がミシンを使えたので事なきを得た。
 お産も心配した程重くもなく、肥立ちも良かったので、妻は二十一日目から起きあがって仕事をする様になった。
 長男の生まれたことは無性に嬉しく、私達は毎日毎日負ぶったり抱いたりしたので、仕舞には寝かせることも出来なくなってしまった。百日目には丸々と肥った良い児に成ったが、五ヵ月位経った時妻の乳に黴菌が入って乳腺炎を起こし、已むなく手術をしたので乳の不足を生じ、重湯を作ったり牛乳を与えたりした。しかし、結果は良くなかったので、薄いおかゆに切り替えた。おかゆに変更してからは育ち方も良く、十ヵ月目には歩く様になった。
 その間に鶏が隣の作物を荒らしたというので、家を戻して警察署の裏通りに引っ越した。ここでは隣家も鶏を飼っていたので何の争いも起こらなかったが、乳腺の手術と長男の消化不良が原因で百八十円程も借金が出来て、之を返済するのに私達は五年の長きに亙って苦労した。出張命令等があるとたちまち旅費に差し支えるので、度々に朝鮮の兄から借りた。あまりに度々なので、妹が苦情を言って来た。私達は借りても、期日までには要らないという利息を添えて返していたので、別に妹から苦情を言われる筋合いはなかったが、この事があってから私の妻は妹との間に仲違いを起こし、今でも二人の仲は良くない。ちょっとした苦言が二人の仲を一生涯に亙って争わせる基となる。お互いに注意しなければならぬと感じた。
 その後、一年位経って私は南湖病院の請願詰めとなり、茅ヶ崎町の小和田というところに転居した。南湖病院は結核専門の病院で、私は入り口にある巡査詰め所に勤務した。ここでは何の事件も起こらず、無事に六ヵ月位過ごし、今度は宮山駐在所勤務を命ぜられた。
 宮山は寒川村にあって国幣社の寒川神社がある外、全村農家で極めて静かであった。事件という事件もなく、たまに窃盗がある程度であった。寒川神社には毎年の例祭に、知事か代参が必ず参拝に来た。相模川の流れに沿い、支流も流れていたので、雨が降ると大水が出て人が流れて来ることもあった。或る日、出水に張り網を張って待っている時、女の水死体が流れて来て私の網に引っかかったことがあった。これは大雨の為、隣村の婦人が流され溺死したことが判明した。
 大相撲では大の里という力士が取り納めの為に寒川神社に来たこともあった。この頃出羽ヶ岳という雲をつく様な男が居て、便所から身体を全く二つ折りにした様にして出て来たのに驚いた。当時は小結であったが、後に段々と下がって幕下となってしまった。
 またこの頃、妻の叔父夫妻が不意に尋ねて来た。叔父夫妻はアメリカに住んで居て、何の連絡もなしに、突然私達を尋ねて来たので驚いた。私は叔父の顔は知らなかったが、叔母に当たる人はかつて私が大山に居た時、大山家の家庭教師として住み込んで居たので良く覚えて居た。当時のアメリカは禁酒国であったため、叔父はビールを出すと大変に喜んだ。又薩摩芋が好物であった。アメリカでは高級食品で容易に買えないと言っていた。当時私達はアルミの釜を使っていた。叔父はこれが良く磨かれていると私達の生活を褒めた。大方鉄釜を磨き上げたものと誤ったのであろう。
 この頃長男は泣く度に引き付け、息もしなくなる様なことがあって私達を驚かせた。私達は心配して同村の皆川病院、院長博士を尋ねて聞いて見た。すると院長は、母乳不足がもたらした結果で、大きく成れば治ると言った。このことは四歳位迄続いたが、皆川博士の言った通り治った。
 家は西向きで夏など暑くて困ったので、有志の後藤さんや真田さんに頼んで西を塞いでもらった。大正十五年には南湖駐在所詰めを命じられ、私は宮山から南湖に転任することに成った。南湖と言うのは嘗て私が勤めて居た南湖病院を管轄する漁師町である。ここは新設であるから駐在所の建物もなく借家住まいであったが、二ヵ月過ぎて立派な駐在所が建築され、私達はこの新築に初代の駐在員として住む様になった。
 この地は南湖病院があるため、海岸地帯にこれ等の結核患者が居た。住民は漁師が多く、衛生思想に乏しく、患家から食物や衣類を平気で家庭に持ち帰り、これ等の家主も平然と出入りしていた。また博徒が多く、暇さえあれば賭博を行い風紀も極めて悪かった。私は先ず第一に各貸家の消毒を励行させた。その後一年過ぎると受け持ち地域全体の衛生思想が向上して、出兵検査の成績全国一の不良と烙印を押されていた南湖部落が段々と良くなり、住民からは感謝される様になった。初めのうちは消毒なんて面倒だと中々言うことを聞かなかったが、書類も私が代筆し、貸家主は印を押すだけの手数しか掛からないので、次第に皆に浸透していったのである。一年位経った時には、札まで消毒して使用するところまで改善されたのである。
 また一方、賭博は見つけ次第に検挙し、南湖地区をして賭博常習者の一掃を計った。その頃、私は度々私行上の投書を受け、上司からは呼び出しを受けて色々の疑いを掛けられることもあったが、これ等は皆博徒の投書によるものであることがわかり、私の疑念も去った。人が何かをしようとする時には必ず反発がある。元よりこれは覚悟していたことである。
 南湖では長女の順子が生まれた。大正十五年六月十五日である。この日駐在所には吉川と言う酔っぱらいが来て、玄関で管を巻いていたが、お産と聞くと驚いて裏口に回りお湯を沸かしてくれ、私は産婆を迎えに走った。折良く産婆さんも居て、直ぐに来てくれたが、この時には、もう生まれていた。美輝が八百五十匁あったのに順子は七百五十匁であった為、この様に軽く生まれたのであろう。
 何れにしても軽いお産で安心した。肥立ちもよく、妻は十日位からはもう起き上がって仕事をしていたが、残念なことに前に手術した乳の出が悪く、私は隣の駐在所の鈴木巡査が、生まれて間もなく子供さんが死亡し、乳が余って困っていることを聞き、毎日二度三度とこの子を抱いて乳を貰いに行った。貰い乳はその後六ヵ月以上も続いたが、鈴木氏が赤羽根、私が茶屋町に転勤になったので、その後は専ら重湯とミルクに頼った。順子は寅年生まれであったから『寅年が荒っぽいので順しい様に』と思って名付けたのである。
 茶屋町という所は、駐在所がお寺の境内にあって、町の治安維持には不適当と思い、東海道筋に移転する様に村の有志に交渉し、立て替える事にした。お寺にあった駐在所の建物は古く、競売にしても三十円位にしか売れないので新しく建てる駐在所に古材を使ってこの建物の材料を利用すると聞いた。『せっかく新築するなら全部新しい材料を使ってもらいたい』と申し出て、『その代償として私が古家は百円に売却してくる』と誓い、知人の大工を呼んで相談したところ、『自分でこわし、自分で建てるとすれば、百円でも安い』と言って心良く百円で買い取ってくれた。これで新しい駐在所が茶屋町の本通りに建て上がった。
 新しい駐在所は、八畳、六畳の二間と、玄関、台所を付け八百五十円であった。ここも相変わらず賭博の多い処で、半漁半商の受け持ちであった。また東海道筋に面していたので、浮浪者の通行も多く、度々弁当や旅費の無心を受けた。その都度金を貸したり食事を与えたりしたが、十人中一人位が返しに来るだけであった。また、義輝は四歳、順子は二歳になり、毎日のように外に出て遊んでいた。時々引き付けを起こしていた義輝もこの頃では元気になり、近所の子供と喧嘩をしては、よく泣かして来た。近所の人も、駐在所の子供だからと遠慮して何も言わなかったが、私はその都度謝ったものである。しかし叱ると泣いて帰るばかりなので、叱ることはなるべく差し控えていた。
 昭和三年六月十七日にはこの駐在所で二女の泰子が生まれた。元自分が泰源と名付けられた事を思い起こし、泰源の泰を選んだのであるが、これも後に天地の関係が悪いと言われ規矩子と改めた。
 この駐在所に勤務して居た時のことである。小俣と言う男が南方で働いて妻への仕送りをしていたところ、妻は朝鮮人と心安くなり、小俣が突然帰宅した時は、ちょうど妊娠八ヵ月となっていた。その為、妻は夫に逢うことも出来ず、間男と共に家出をし、小俣は妻の両親を殺し、妹を傷付けるという事件が発生した。この時私は届け出を受け、警部補派出所の有沢巡査に連絡して応援を依頼し、直ちに現場に向かった。その間小俣は血刀を提げ、私の留守に成った駐在所を襲撃した。理由は、私が同人妻の捜査願いを受け付けて後、一ヵ月経っても発見しなかったので、受け付けはしたが捜索はしてくれないものと誤認していた為である。この時駐在所には妻と子供二人が居たが、妻は驚いて裏口から隣りの家に駆け込んだそうである。
 私が現場に在って、死体の状態を見聞し保存に努めていたところ、小俣は駐在所から引き返し、殺人現場近くまで来た。私は、
「鐘次、どうしてこんなことをした。」と声を掛けた。すると犯人鐘次は、
「何を、この野郎。」と叫びながら青龍刀を上段に振り冠って来たので、私は何時でも自分の刀を抜き合わせる用意をして鯉口を切り、対峙していた。この時応援に来て居た有沢氏は行き先不明となり、切り込む訳にも行かず、対峙すること一時半、応援隊として警部補以下十一人が到着し、指揮に従い各自物干し竿を持って犯人の周囲を囲み、その向こう脛を打ち払い、ようやくにして逮捕した。この男、元相撲を取っていた者で、中々力も強く、最初の補縄は切られて仕舞ったが、こちらは多数であった為、再び補縄を掛け直し同行した。動機は妻の不貞により生じたものであるが、妻の両親を殺害し、妹を傷つけた行為は重く処断され、懲役十五年に処せられた。
 思うに強盗や殺人事件の捜策に比較し、家出人の捜索等、軽視される傾向にあるが、こんな大きな事件を引き起こす原因となってしまっては、犯人に対しては全く気の毒という外ない。しかし妻が発見されたとしても、恐らく殺人事件は発生したのであろうと想像が出来る。
 次には隣接駐在所管内に頻発する強盗事件と、神奈川、東京を中心とする説教強盗事件に付き、私はほとんど隔日に張り込み勤務に当たった。隣接駐在所管内の強盗は、元居た南湖駐在所管内の男に最も深い容疑があったので、私の顔見知りでもあり、充分注意していた。
 ある日、刑事は腹が空いたとそば屋に入り、私だけが表通りで見張ることになった。すると、懐中電灯を照らしたり消したりしながら、自転車に乗って近寄って来る男があった。私が
「誰か。」と言うと、男は突然懐に手を差し入れた。私は逸早くその手を取り押さえ、男の顔を伺うと、かつて要注意中の犯罪容疑者であったので、直ちにそば屋に引き入れ、逮捕した。この時、犯人はその手に短刀を携えていたが、私が知り合いの巡査であったため、刃向かうのを躊躇していたと判り、私にとっては幸いであった。
 こうしてこの駐在所にも一年余り居るうちに、衆議院が解散になり総選挙が行われた。時の内閣は鈴木内閣であった。選挙といえば、毎回反対党の圧迫をするのがこの時代の通り相場である。これは箕浦内閣に始まった官公吏の異動が、すべて選挙干渉の為にあったからである。私はこれに対する反抗心が旺盛で、あく迄も正しい選挙を望んでいたので、御用党が平然として買収や戸別訪問をしているのに、野党側はこそこそと人目を避けて運動をしていることが我慢出来ず、与党の違反はどしどしと摘発した。この為、選挙終了後は直ちに小田原警察署に転勤を命ぜられた。時は昭和三年七月十五日であった。
 私が茅ヶ崎町警部補派出所管下にあった時、古参の同僚は、新しく赴任する警部補を迎えに行くが、同時に去る警部補についてはこれを送ることもしなかった。彼等は平素在任中の上司に取り入り可愛がられているが、去る者はこれを追わずの構えをとる訳である。これが官吏として出世を志す者の真意であろうかと甚だ不快に感じ、その後の自らの規範の参考とした。私は常に送る方に回り、迎える方は他に任したのである。私が幹部として下に接するとき、これは尊い経験となった。
 小田原警察署に赴任したとき、時の署長は山口氏で、
「君はどうして転勤になったのか。」と聞かれたので、
「小田原から外山という優秀な巡査が藤沢へ転勤になるのだから、藤沢からも優秀な巡査をとの注文があり、私がそれに選ばれたと聞いて来た。」と答えると、山口署長は笑いながら、
「そうか、そうか。」と言って、私を豊川村の駐在所詰めにした。
 豊川村には時の〝県会議長全国町村会長同村長〟という肩書きを持つ河野治平氏が居た。河野氏は頗る横暴で、署長であろうと知事であろうと、自分に用があればたちまち自宅まで呼び付け、駐在巡査等はあたかも小使いの如く扱う人だと聞かされたので、私は大いに気に入った。是非一度争ってみたいと考えていると、ちょうどその時が回って来た。それは全国町村会長会議が小田原で開かれ、選挙法に付いて疑問を生じたので署長に来て貰いたいという申し込みを河野氏から受けた時である。署長は忙しいからと断り、河野氏はそれならば警部をと言ったが、これも同理由で断られ、次は警部補をと言ったところ、これまた断られ、最終的に駐在所の巡査が差し向けられたのである。この会議の帰り途に、河野氏が私のところに立ち寄って曰く、
「署長に伝えてくれ、実にけしからん。今日署長にと言ったが、来てくれないので、そんなら警部でも警部補でも良いと言ったところ、そのどちらも来てくれず、駐在を寄こした。全くけしからん。」と言うのである。私はそこで河野氏に、
「用事のあったのがあなたの方なら、あなたの方から署に出向いて疑問を正すべきなのに、反対に呼び出す等、礼を欠いているではないか。日本人である以上日本の礼がある筈だ。私から署長にそんな事は取り次げない。まして、駐在所を派遣したというのは好意ある派遣ではないかね。」と答えた。すると河野氏は非常に怒って、早々駐在所を出て行った。翌日になって、署長から電話で呼び出しがあったので、登庁して見ると、
「昨日河野氏との間に何かあったのか。」と聞かれた。この一件を伝えると、
「左様か左様か、それは良かった。」河野氏の話で、今度私の村に寄こした巡査は中々しっかりした良い巡査だと私の事を褒め称えていたということであった。私も一旦はどうなるかと心配はしていたが、結果は〝良〟と出て安心した。
 以来河野氏との仲はかえって睦まじくなり、度々同家に出入りした。同氏には後に大臣となった息子の河野一郎氏が居て、私と一つ違いの青年であったため、良く意見を闘わしたものである。河野氏は常に農業立国を主張していたのに引き替え、私は工業立国を唱え、お互いに譲らなかった。河野氏は後に農林大臣となり、私は警部で終わった。しかし、私の工業立国論は敗戦後の日本を強大な経済大国に発展させた。またその反面沢山の公害も生んだ。農業立国ではこうした公害は生まれなかったであろう。しかし経済的に貧弱な日本国に於いて狭小な土地の上に、一億という沢山の国民を抱え、果たして農業のみに頼り得るであろうか。これは将来の研究資料として、大いに反省し、確固たる方針を立て、対処すべき難問であると思う。
 さて豊川村は極めて平和で事件というものはほとんど発生せず、私は毎日魚釣り、五目並べの専門で、戸口調査と巡回の繰り返しであった。河野治平氏はかつての学生時代に、家内の叔父蒲池信と仲良く、常に小遣い銭を借りて居たという事が分かり、その蒲池と私との親戚関係が判明すると、全く私に対する態度を改め、私はこの駐在所在任中署長の処遇も良かったので、大いに勉強し、巡査部長試験にも合格した。
 昭和五年九月八日は三女智子が生まれた。何と名付けたら良いか考え抜いた末、〝智恵子〟と付け様と思ったが、それでは〝ちええ子〟になると思い、智子と名付けた。初めお産の日取りが九日になるのではないか、九月九日なんて嫌だなと思っていると、八日に生まれたのでホッと安心した。九なんて行きづまりが二つも重なったらと、こればかり心配していた。
 私は、この時巡査部長に昇進し、厚木警察署勤務を命じられていたので、直ちに赴任しなければならなかったが、妻が産褥にあったので、一週間の休暇を取って引っ越しも延期し、妻が起き上がれる程度に成った七日目に、ようやく厚木町へ引き移った。厚木警察署では、衛生主任と消防主任を受け持つことになった。消防主任という仕事は極めて宴会が多く、私はほとんど毎日のように消防関係の酒席に招かれて居た。消防には春の出初め、平素の訓練講習が付きもので、彼方此方を巡視しては教養に勉めた。幸いにして私の在任中、大きな火災は発生せずに終わった。また、この地帯は空気が良く、衛生面でも優れた環境で、人については伝染病の発生等は起きなかったが、受け持ち管内の所々に豚コレラが多発し、このために焼却と予防接種の仕事が増え、ほとんど隔日のように家を空けていた。また臨時の手当も増加し、俄に遊ぶ習慣が生じ、度々料理店に通ったので妻に心配を掛けたが、妻は一向に怒りもせず、極めて平静を装っていた。
 厚木では長男が早くも小学校に入学することになった。小学校は近かったので一人で通わせた。長女は六歳、二女は四歳、三女は二歳となり、家庭も賑やかで、家主であった隣家の二宮さんのところにも女の子が二人居たので、子供たちも仲良く遊んだ。
 斯くして、また衆議の選挙が行われ、署長以下の交代があって、阿部署長が赴任し、駐在所の交代も行われた。この時同村に石川という県議が居て、この駐在所の異動に干渉した。私は非常な不快を感じ、同氏に対する交際を断った。この事は直ちに私の身分に影響を及ぼし、私は加賀町警察署に転勤命令を受けることになった。しかし、この転勤は私に取ってはかえって幸いをもたらし、一家は益々円満に発展への道を辿ったのである。
 加賀町は横浜港に接し、外国の公館、貿易商、南京街等の建物があり、署員は二百名余り居て、特高刑事、外勤等に分かれていた。私は甲部交通主任を命じられ、交通の取り締まり、事故の処理等に当たった。管内には桜木町駅があり、交通も頻繁であったため、毎日一件位の事故が発生したが、死亡事故は割合に少なく、むしろあまり交通の頻繁でない山下町方面の直線道路の方に大きな事故が発生した。交通が頻繁なところには注意力が注がれるが、広くまっすぐな道路には運転者の油断が生じ、結局大事故を引き起こすようであった。
 署長には、大学出の若手、田上辰雄氏が居た。交通主任の勤務は割合余暇が多かったので、私は一日八時間の日課表を作って、必ず日課だけの勉強は欠かさなかった。その時の目的は、警部警部補考試試験を第一位で合格することにあった。努力の結果は遂に実った。筆記第一位、口頭第三位という成果を収めたのである。これで私は、いよいよ警察官としての将来に希望を持つことが出来るようになったので、法律の勉強も一段落し、書道の研究を始めることになった。
 人間何かの目標を持って努力するうちは、そこに一種の楽しみがあるが、目的がなくなると誠に寂しいものである。私は目的なき生活に進歩なし、保守は退嬰の始まりであるという言葉を考え出して、常に何かの希望と目標を定めて進んだ。書は元より好きでもあったし、かなりの自信も持っていたが、椿氏が一級で私が三級の烙印を捺され、自分の持っていた自信が崩れ去ったが、これを機会に再び練習をすることにした。後には三段と成り四段となって横綱級の人とも相撲を取ってみた。しかし、いくら練習しても自分の満足する文字は書けないのが残念である。
 当時は神奈川区松本町に住んで居たので、私は毎日バスで通勤していた。この頃美輝は尋常小学校三年、順子は一年で栗田谷の小学校に通学していた。子供達は私が習字をしているのを見習い、字を書くことに趣味を持つ様になり、学校では銀賞、金賞等を貰って来た。私は小学生を集めては、よく字を教えた。
 昭和八年三月六日には四女の和子が生まれた。これで私の家は七人家族となり、叔母の家に遊びに行くと、七福神がやって来たと喜んで迎えてくれた。和子という名を選んだことは叔母から非常に喜ばれたが、姓名学上良くないと言われ、冨持子から孚至子に変えた。これなら良いと思う名も、姓と名との調和がなければ良い結果は生まれない。病弱、癈失、自殺、変死等、皆姓名に表れている。
 昭和八年十一月二十五日、私は警部補に昇進し、伊勢佐木警察署詰めを命ぜられ、乙部外勤主任となった。外勤は隔日勤務であるから一日は署に、一日は家に居て家族揃って楽しく暮らせたが、七人暮らしでは余り生活も楽ではないので、衣類などは賞与を貰った時でないと買うことも出来なかった。七月と十二月には家内から子供を連れて伊勢佐木町に出掛け、松屋、野沢屋等のデパートに行き、皆のものを買った。順子と泰子は何時も同じ位の背丈であった為別々に買い、智子には気の毒であったが順子と泰子の御譲りを造り直した。智子は不平の様であったが、何しろ貧乏なので、偶に新しいものを与える位しか出来なかった。和子はこの頃まだ赤ん坊であった為、貰いもので間に合った。
 他の警部補は郷里の仕送りを受け上司との交際を行っていたが、私の方は、ただまっすぐに正しく歩く道しか選べなかった。そういう意味で、仕事の上では誰にも劣らないが、交際面では大分立ち後れて居た。
 松本には三年位住んで居た。隣家に小間物屋の関口さんと洗濯屋の石井さんが居て、ちょうど子供らの遊び友達が居たので、子供達は毎日を楽しく過ごしていた。美輝は藤巻さんという友達と毎日遊び回って居た。或日、留守に石油コンロが爆発して障子に燃え移ったが、順子と泰子が水道の水を掛けて消し止めた為、大事に至らず済ましたこともあった。仕事が警察官であるから、もしも、火災を出す様なことがあったら大変であったが、良く子供等の力で消し止めてくれたと感謝した。
伊勢佐木署には出志久保という署長が居て法華経を信じ、夏でも冬でも水を浴びて修業し、警察部では人格ある署長の如く言われていたが、この修業は他人の迷惑をも考えぬ見せ付ける為の修業に過ぎないと、私は喝破した。書道も好きであった為、大沢という先生を呼んで署員に練習させ、私も仲間に入った。しかし署長の修業方法は、あまりにも私の感情には合致しなかった。冷水摩擦も結構であるが、他人が冬場、風呂に入って暖まって居るのに、自分は水を浴び、水をかぶり、他人の迷惑を少しも考えず、これ見よと言わんばかりである。また、酒を飲むときも一杯と決め、杯でも一杯、茶碗でも一杯を受け、飲み乾す様な不自然さである。初めから杯一杯と決めたら杯一杯で通すべきである。これは坊主が口では結構なことを言って説教するが、反面の生活は全くこれに反するのに通じるところがある。そんなことで署長と私との間は、とかく面白く行かなかった。
伊勢佐木では、毎日のように自動車の違反が検挙されたので、違警罪即決令により科料の言い渡しが行われた。また火災事件も度々発生し、原因の究明と犯人の検挙に当たった外、外勤巡査の検挙してくる窃盗犯人も沢山あって、主任たる私が一々処理に当たった。他の警部補が処罰したものや送致した事件について、常に正式裁判や上告等のことがあったが、私は何時も違反者や犯罪者が充分納得の行くまで説明して後に処罰するか送致するかを決定したため、誰一人として正式裁判の中立ても上告もせず服役した。私が刑務所を訪問した時等、囚人の中に私を知っている者が居て、
「旦那、真面目に働いて居ます。」と挨拶をされたこともあった。また出獄後は直ちに私を頼って来て、身の上の相談をした者も沢山あった。就職の斡旋もしたが、職場に愛情を持って、身分さえ明かさなければ、総て更生することが出来た。要は相手方を納得させることである。納得さえゆけば、人は反抗もせず真面目にもなるものである。ただ叱り、ただ怒るだけでは決して人はついて来ない。
さて、大分余談に入ったが、昭和十年十月十二日、私は横浜水上警察署転勤の命を受けた。水上署は神戸と共に日本の玄関口であるから、諸外国との交易、渡航、入港の事務が多いので、外国人との接渉も多く、外事係り、特高係等が配置されていた。私は外勤主任であった為、管内派出所の巡視、水上事故の処理等に当たっていた。最も多かったのは水死人で、幸いにして他殺事件はなかったが、自殺、他殺の区別を明らかにしなければならなかったので、身元の割り出し、死亡の原因を探求する為、中々の忙しさであった。また、私が水上署在勤中に衆議院議員の選挙が行われ、川和署の応援として、二十五日間の長期出張を命じられて赴任したところ、私が留守にした翌日から、五人の子供が五人共、感冒から肺炎を起こして床につき、妻はその日から単身で薬取り、買い出し、看護等をしなければならぬ状況になり、全く困り果てていた様である。しかし、出張先の私には一言もこのことは言わず、入浴さえも出来ずに頑張っていたということであった。
 選挙も終わり、私が帰宅した時は、ようやく子供等も快方に向かい、妻は早々に入浴のため風呂屋に行き、子供達も安心したのか、私の帰った翌日から起き上がるようになった。母は強い。全く強。、子供の危急にあっては献身的にその努力を惜しまない。私はただ感謝する以外になかった。
 翌年二月二十六日には、いわゆる二二六事件が、始まった。私はこの日、非番で家に居たが、非常召集を受けて登庁したところ、その日軍部の反乱が起き、犬養首相が殺された。治安の維持は軍部を頼ることは出来ない。むしろ警察官の力を以て軍部に対抗しなければならない。最も重大な危機であるとの報告を受けた。私はこの時、
(いよいよ死ななければならぬ時が来た。軍部と警察官との戦いでは、その装備に於いても力に於いても大きな開きがある。到底勝てる見込みはない。)と覚悟し、妻に対し、
「或いは帰ることが出来ないかも知れない。」と通知し、徹夜で警戒に当たったが、幸いにして軍部の反乱は軍部によって鎮圧され、翌日になって小康を得、我々の警戒も解除され、私はようやく帰宅した。げに政党の腐敗、最も甚だしく、しかも、余りにも永きに亙る。政党人の横暴がこんな結果をもたらし、これが動機となって、大東亜戦争に発展する軍部内閣の基礎が築かれたのである。
 水上署在任中は全く休む暇もない世情の変遷であった。人は皆権力か地位を求め、それが得られると次は財力を望む。財力ある者は又之に反し地位と権力を求めて動き、その間に幾多の不正が行われる。窃盗や詐欺等は小さな事件に過ぎない。政党などというものは、常に財力と結びつき、大きな不正をあえて行い、しかも、法に触れない様に裏の裏をくぐって横行しているのが実状である。正直者は馬鹿を見る。これは社会の実態である。理想は所詮理想である。現実と理想はいつになっても結ばれることがない。要は、理想に向かって正しく上手に歩むことのみが地位を生み、財力を生み、権力を得る一つの道である。死すれば皆仏である。善も悪もない。『罰せられるのは運の悪かった下手に世の中を泳いだ者のみである』と言わざるを得ない。孔子や孟子の如き聖人はいざ知らず、現代の世相は孔子や孟子の住むことさえ許されない時代であろう。
 さて、私は昭和十一年八月二十五日付けで、高津警察署へ転任となった。高津署は川崎市外にある。警察署長を中心とする小さい警察署で署長には阿部忠太氏が居た。私は次席として警務、司法、経済等諸般の事務を統合処理した。
 横浜在住は久しかったので、私は加賀町、伊勢佐木、水上と在任し、住所も松本から栗田谷にかわり、栗田谷でも長屋から一個建てへと再び転居した。栗田谷も川渕に住んでいた時は、和子が赤痢となって警察病院に入院した。この時、私は一文なしであったが、金よりもまず入院だと自転車を走らせて病院にたどり着いたところ、〝この重病人を自転車で〟とひどく叱られたが、子供も沢山居るので、取りあえず急行で入院させ、食器から住宅までことごとく消毒し、他の者には伝染することなく済んだ。この時郷里から妻の妹恵美が来て居たので、妻は付き添いのため病院に泊まり、家事は妹を手伝わせて自分が行った。この頃になると美輝は五年、順子は三年、泰子は一年と既に三人まで学校に通い、家には智子と和子が残っていたが、和子が入院したので智子だけが恵美子に預けられ、私は勤務に就いた。和子の病気は手当が早かったので短期間で全快し、医療費も知人からの見舞金で充分間に合った。
 また、この当時は国許からの訪問客も多く、加茂の従妹中内シゲ子、妻の妹恵美子、妻の従弟有沢武久、兄の物部光久夫妻等も訪れた。兄夫妻は結婚の挨拶、従弟は就職、妹は結婚相談、従妹は結婚挨拶等であった。
 高津では、学校の隣に住所を構えていたので、子供達の登校には極めて便利であったが、美輝は勉強よりも野球の方が好きで遊び回り、順子と泰子は良く川原へ遊びに行った。或日二子を通っていると、どちらも同じ位の背格好なので、
「あんた達、双子?」と人に聞かれ、順子はとっさに、
「二子じゃないよ。溝の口だよ。」と答えたと言うので、家中笑ったことがあった。高津は溝の口と二子に分かれて多摩川に沿った町である。
 高津は平凡な町で極めて平和であった。格別な事件も起こらず、私達は常に多摩川のワカモト工場に剣道練習に行っていた。この頃、私は取っておきの初段で、警察署の対抗試合には何時も大将としてメンバーに加わっていた。私の剣道は〝持久戦〟というあだ名で、長引けば必ず勝つというのがニックネームになっていたのである。相手が二段か三段であれば勝つことが出来たのであるが、試合の為に初段に止まっていたので、やっぱりインチキには違いない。しかし、勝負の為にはこんな事も行われているのが常である。正しきを守る警察にして尚斯くの如きか、正直者が馬鹿を見る時代には人の行動もこれに従う外はないのであろう。
 美輝はここから日大商業に入学し、順子は五年、泰子は三年、智子は一年とこの時から四人の子供が学校に通うようになった。美輝の入学費用は、子供の頃から掛けていた保険がちょうど満期になったので、これを引いてその費用に充てた。この頃の事件としては、南毛利の強盗殺人未遂と某ケ谷の山中に於ける殺人事件で、これは僅か一週間位ずつで解決し、賞与を戴いた。
 美輝の学期試験はあまり芳しくなかったので、二学期には私がヒントを与えて勉強させたところ、これが総て適中し、一辺にその成績が向上した。この事があってからの美輝は見違える様に勉強をはじめ、その後の成績は上々であった。順子と泰子はいつも学級委員か副級長をしていた。
 昭和十三年二月十五日、川崎臨港警察署詰めを命ぜられ、横浜市鶴見区寛政町に転居した。この家は港の運送会社である福田氏の所有で家賃も安く、貸間まで付けてくれたので、臨港署の村上、海道、和田等の独身巡査に貸していた。臨港署は主として川崎の工業地帯一帯を管轄し、日本鋼管、富士電機、徳永硝子、東洋電鋼、味の素、三菱産業、栗山工業等各種の工場が立ち並んでいて、各方面から通勤する職工、会社員等が沢山出入りをし、また事故も度々発生した。
 ここでは初め、署長と私が監督をしながら諸般の事務を行ったのであるが、隣の川崎署には、三人の警部補が配属されているのに、私の処は私だけ、しかも事件の発生件数に於いては隣接署と同数という有様であったため、私は常に午前七時に出勤し、午後十一時まで残番勤務をした。後になって巡閲があり、この事情が警察部長の知るところとなり、私は賞賛されて警部補の定員を一名から急に三名として増員配置されたので、それからは大分休養が取れる様になった。
 同署に於ける大事件と言えば、日本鋼管の一酸化炭素ガス漏れ中毒事件、被害者三十七名臨港地帯に於ける中学生十二名の一斉水死等であった。この二事件は何れも日本鋼管の医師を検視に当たらせたが、ガス事件はガス中毒を認めず、私の法医学的説明により、ようやく中毒であろうと回答された。また、水死事件については医師は心臓麻痺説を固持し、私は溺死を主張して裁判上の不都合を生じたが、何れも私の主張したガス中毒と溺死を認められたことがある。この頃私は三田博士の法医学を研究していたので、それぞれの特異性を充分検問していたため、これが正しい意見として認められたのである。医師はただ、資本主や父兄の意見に従い明確な診断を避け、裁判所の認定を阻害したに過ぎない。
 その外にも墜落、爆発等の事件はほとんど三日置き位に発生していた。これ等の事故は朝の出掛けに何かの争いがあったり、家庭の心配事があったり、大方の事故者が精神的統一を欠く結果の発生であった様に思われる。また、同署では署長の斉間建夫氏が発狂して暴力を振い死亡した事件もあり、私の補佐が悪かったと他の批判を受けたこともあったが、警察本部に於ける私への批判は概ね良好であったため、昭和十五年二月三日、私は戸部警察署へ司法主任として転勤になった。
 戸部署は横浜駅から桜木駅迄の間と野毛山公園から南部工場地帯を管轄し、司法、特高、経済、外勤に分かれ、署員二百名以上を有し、警視流石巌氏が署長をしていた。この人も日蓮信者であったが、前の出志久保氏とは大分違った修養方法であった。ここでの仕事は火災、盗難等の小事件と家出人の処理、皇族、並びに高官の往復に伴う警備が重要な任務で、私は度々皇族方の警備のため、横浜、熱海間を往復した。
 戸部署では長男が商業を卒業し、商業専門学校に入学した。また、順子は高等小学校を卒業したので酒井助産婦学校に入学させ、泰子は高等小学校、智子と和子は小学校にそれぞれ通学させた。五人の子供が五人共学校に通っているので、弁当造りだけでも大変であった。経済面でも中々苦しい状態であったが、幸い美輝が商業学校を卒業していたので、戸部署の経済係り書記として採用してもらい、幾分の余裕があった。私が戸部署から保土ヶ谷署に転任した頃、順子は助産婦学校を卒業し、泰子は市立商業に、智子は鶴見女学校に入学した。私は経済講習のため、戸部署から警察講習所に入所した。
 講習所にはかつての巡査同期生であった溝渕氏が警視に昇進し、教官を勤め、私は学生であった。私がここで教官から聞いた言葉に、『君達の中に易学を読んだ者が居るか。』というのがあった。私は不思議に思った。
(なぜ警察官に易学の研究が必要なのか。)と。しかし、
(何かの参考になることがあるのかも知れない。一つ易学を研究して見よう。)と思い、神田の古本屋を探して易経一冊を買い求めて読んで見た。これが私をして姓名学の研究や易学の研究に入らしめる基となり、我が子の名を変えたり、他人の名を変えさしめたり、また、命名したりする基になった。時には犯罪人の姓名を見て、犯罪性の有無にまで参考として使用することになり、東京朝日新聞は、戸部警察署司法主任の姓名学という記事を掲載する様になった。易学というものは易経を基とし、人の行動を天地自然の理法に従わしむるにあり、二宮尊徳先生等もその著に残されている。
 昭和十五年十月八日には、次男英夫が生まれた。私の家は女の子が多く、男の子は長男一人であったため、幾分の寂しさを感じて居たところへ男の子が生まれ、夫婦共に喜び、姓名学より割り出し英夫と命名した。しかし、同数が多く変化を欠くので、よろしくないと言われ、英靖と変えた。爾来、英夫は英靖で通っている。
 戸部署では犯人引き渡しのことで課長との間に争いを起こし、刑事課長の機嫌をそこねてしまったのと、無尽による詐欺事件を究明しようとした際、多数の警察内部の加入者より妨害を受けた。こんなことが原因したか、私は司法主任より退けられた。
 昭和十六年十二月八日には日米の間に戦争が起こり、日本海軍は真珠湾をいち早く攻撃し、米艦隊に大損害を与えると共に、翌日にはインド洋海域で英海軍を攻撃し、大戦果を収めたのであるが、私達は宣戦が布告された時は『一体どうなるだろうか、果たして勝てるだろうか』と、この話で持ち切りとなった。大いに心配もしたが、この戦果に国民は『勝った勝った』と喜んで居た。私はこの時、
(東條に三年間政治を担当させた時は勝てるが、日本人の常としてこれは到底むずかしい。もしも東條以外の人に政権が回された場合は、その結果が危ぶまれるのではないか。)と判断した。大体日本人は総力を結集することのむずかしい国民で、甲論乙論交々入り乱れ、相戦い、国の為に働く者あれば国を売る者もあって、情報は常に敵側に流れていたのであるから、〝憲兵や特高警察が如何にその眼を光らせても無駄であった〟と言わざるを得ない。
 元々この戦争は、米英が我が国の移民と工業生産の締め出しを計画したところに始まったものである。我が国の国民は、生めよ増やせよで年々増加する。土地は狭く資源は乏しい。工業生産も資源を輸入し、加工して賃金を稼ぐというのが立国の精神である。こうした国の輸入を閉ざし、人口の流入を拒否した。これら諸外国の政策が我が国の生存権を脅かすことは事実であり、日本は暴力に訴えても、この解決を図るのは当然である。あまつさえ、彼等白人は黒人の地域からもアジア民族の土地からも占領政策によりこれら民族の資源と自由を奪っていたのであるから、ここに民族の解放と自由を求めさせることは、これ等民族の生活権を確保する為、止むを得ざる戦いという外ない。之が日本政府をして戦争に突入せしめた唯一の理由である。後になって無暴であるとか馬鹿げた戦争であったなどと批判する者があるが、これ等は当時の実状を知らざる者の戯言である。この戦争があったからこそ、幾多の国が独立し、無暴なる経済の締め出しや移民の抑制がなくなったのである。一にも二にも、東條が悪いと言うが、決して東條が悪いのではない。米英の政治家が己の利益のみを貪らんとする吸血鬼的行動を取ったからこそ大東亜戦争を始めさせたのであることを、誰もが叫んではいない。
 戦争は負けたが戦いは勝った。だからこそ日本経済の一大飛躍があったのである。また一面無暴と言えば、世界五十六カ国を相手に、ただ一国が戦ったところに無暴さがあったが、救われたものはアジア民族全体であった。
 私はこの戦いが始められた当初の昭和十七年に保土ヶ谷警察署の次席として転勤になり、防空の演習、消防訓練、防御政策としての心構え等について日夜住民の訓練に当たった。当時海軍の田村大将の講演も受け、日米の戦いは体当たりの外勝利の目途がないことも聞かされた。しかし、始めた以上勝たねばならない。勝つ為には一億一心でなければならない。我々は説いた。皆が一つの心になって国を護ろうではないか、その為には最後の一兵まで戦うという覚悟が必要である。竹槍を持って近代戦に望むことの不可能は判っている。しかし、戦うという信念を高揚する為には役立つのである。消火訓練も退避訓練も無用の犠牲者を出さない為には必要な条件である。私達はバケツリレーによる消火訓練を、繰り返し、繰り返し実行した。振り返ってみれば、今の火災を傍観して居るよりは全員こぞってバケツリレーで水を送った時代が、如何程楽しかったか分からない。また、それがあったからこそ当時の火災は最小限に食い止め得たではないか。今にして、あんな訓練が何に成ったか等と言う人があるが、それこそ国土も家屋も守れず、只々人に頼って傍観する野次馬に他ならないと思う。批判は誰にでも出来るが、それを考え、実行する事は難しい。とにかく、私は一生懸命に指導し、訓練させた。
 昭和十七年十二月、私は高橋三郎という警察部長より呼び出しを受けた。警察部へ行ってみると、部長は私に、
「マライへ行ってもらえないか。目下占領中のマライに警察を造り、警察官を養成する為には相当の経験を積んだ人でなければならぬ。君はその条件を備えた者であるから是非頼みたい。そのかわり一旦帰国した時はその時の官職に復帰してもらうことを保証するから。」と言うのである。私はこの呼び出しは、警部補十一年の経歴よりして警部に昇進し転勤になるものと考えていたが、意外にもマライの警察建設の為と言われ、家には教育盛りの子供が五人と幼児二人もあり、ちょっと考えざるを得ない状態であった。それでも、
(国は今戦争の最中であり、誰かが占領地の守りに当たらなければならないのだ。よし行こう。)と決心し、即座に之を承認し、同日付けで警部に昇進、同日付けで陸軍軍属待命という手続きが採られたのである。この日私は家に帰り、妻にこの話を伝えると共に、留守となる私の後事を託し、その後四ヵ月は何の仕事もなく、家族や子供等と仲良く遊び暮らした。
 昭和十八年四月十八日、私は保土ヶ谷警防団から贈られた軍刀を腰に、いよいよシンガポール(当時は昭南島と言った)に向け出発した。隣組一同も、
「森本君万歳!」と軍歌を歌って送り出してくれた。この時美輝は十八歳、順子は十六歳で美輝は戸部署に勤め、順子は助産婦学校を卒業し、泰子は市立商業に、智子は鶴見女学校に、和子は小学校に通学し、二男英夫は可愛らしい盛りの三つ、しづえは赤ん坊で母の背に負われ、私を送ってくれた。残される家族のことも心配だったが、国の為には止むを得ないと考え、万一の時は小さい商売でも始めるようにと、餞別に貰った金全部を妻に預けて、横浜駅から汽車に乗って宇品に向かった。汽車は総ての窓が閉ざされ、外の様子は少しも見ることが出来なかった。
 宇品に着いてからは点呼を受けて、いよいよ輸送船に乗り込み一路シンガポールへの旅に着いた。水は台湾で補給する以外にはどこでも貰うことが出来ないので、毎日柄杓一杯が与えられ、口もゆすげば身体も拭くという有り様であった。水なんて何とも感じたことのなかった私達も、この時ほど水の大切さと有り難さを感じられたことはない。水が無ければ一日も暮らせないのに、我々は日頃水の有り難さを感じない。空気もまた然りである。
(私達は常に自分の周囲を顧みて、感謝の気持ちを持ち続けながら、生活を維持して行く必要があるのではなかろうか。)と考える。
 さて乗船して見ると、私達は将校待遇ということで大事にはしてくれたが、若い准士官達は威張って居て、全く軍部の政治を反映して『吾こそ天下を護っているのだ』と言わんばかりであったのには驚いた。私は乗船五日目に歯槽膿漏を起こし、歯茎は腫れ上がり食事を取ることすら出来なくなった。しかしこの船には医者が居ない。私はいよいよ困り果てていたが、乗り合わせて居た看護婦がペニシリンを持っていたので、それを貰って服用したところ、膿も取れ、ようやく茶漬けを飲み込む様にして食事を取ることが出来た。私は先ず一安心した。しかし、用意の易経を調べて見ると〝一時的に治るが再発の危険あり〟と出ていた。果たせるかなシンガポール上陸後三日というところで、再び化膿が甚だしくなり、全く食事は取れなくなったのである。同僚達はこの様子を見て、『森本君は恐らくシンガポール到着まで命が保たないであろう。』と心配してくれた。しかし、私はまだまだ死んでなるものかと頑張って、与えられた飯盒の飯を箸で突き砕き、湯に入れておも湯を作って飲み込む様にした。その効あってか、五月十日、シンガポールには皆と一緒に無事上陸出来た。私達が台湾を出発してから三回に亙って米潜水艦の襲撃があったが、その都度何処からか飛んでくる飛行機と、駆逐艦の護衛で我々は無事に十八日間に亙る航海を終えたのである。沖縄から先は熱帯地に入るので一日三回か四回位スコールがあって、人々はその都度甲板に出て大急ぎで石鹸を付けて身体を洗った。しかし時には、すぐにスコールが止んで石鹸を流すことが出来ない人もあった。婦人はスコールも浴びず風呂もなく、僅かに拭くだけで、全く気の毒に感じられたが、戦闘状態に入って居る最中の航海なので、皆我慢して居た。私達の鑑には婦人も三十人位乗っていた。この人達は傷病兵の看護に当たったり、雑用に従事する人達であったが、割合にのんきで、時には歌い、時には踊って皆を楽しませてくれた。
 シンガポールに上陸してからは、一路軍政監部に出仕し、それぞれ任務を命じられ、与えられた宿舎に入った。宿舎は板の間で筵も畳もないバラックであった。暑いので布団もなく、ただゴロゴロと寝るだけであったが、身体が痛くてとても充分の睡眠を取ることは出来なかった。
私はその日、軍政監部勤務治安課配属の経済係兼防空係主任を命ぜられたのであるが、船中に於ける病の為、一日の許可を貰って陸軍病院に行った。
 陸軍病院では、腫れ上がった頬を見せ診察治療を依頼したところ、受付は午前八時までであるからと断られ、翌日、改めて同院に行った。すると今度は今日の定員だけ受付を終わったから、また出直す様に言われ、官僚的な融通のきかなさに私は憤りを感じ、
「昨日午前八時迄に来いと言われ、本日午前八時迄に来ているではないか。」と反問したところ、
「ちょっと待ってもらいたい。医師の承諾を求めてくるから。」と言って立ち去り、再び受け付けに現れ、
「特別に今日治療をしてくれるということになった。」と回答した。私も安心し、その日のうちに七本あった歯を一度に抜いてしまい、縫合して、毎日外来として通院することになった。この日から私はミルクと重湯の生活を始めた。この生活が三十日続いて、ようやく上下の入れ歯が完成し、普通の食事が取れる様になった。ミルクは到底手に入らない品物であったが、横浜在住当時に隣家に居た関口氏の甥という人が新聞記者としてシンガポールに来て居たので、四個、五個と送ってくれ、大変助かった。
 軍政監部には川崎で巡査をして居た人が中尉で出征し、警部補で居た人が上等兵としてその下に働いていた。文官で成功しても、武官となれば反対の立場に立つことにも、矛盾した生活や地位があることを思い、一抹の寂しさが込み上げて来た。また、将校と下士官の生活があまりにも掛け離れているのに驚いた。食堂も将校と下士官に区別せられ、料理も全く違っていた。こんな事で本当に兵が将校について行くとは思えない。ただ上官の命は事の如何を問わず、これに従うべしという規則があり、これに従わざる者は処罰せられるから、止むなくついて行くのである。心から上官を慕い、その命令に服するのとは雲泥の差である。
 私もまた、軍政監より銃制規則を制定せよと命ぜられ、一度は反対意見を出して見たものの、既に下された命令には服さなければならないので、止むなくこの規則を制定して施行した。内地に於いてさえ銃制が失敗して居るのに、まして外人ばかりの昭南島に同じ様な規則を作ってもうまく行く筈がないと考えたのである。
 果たせるかな、その日の内に昭南島からあらゆる品物が姿をひそめた。これは、その組織となっている商店の経営が日本とは著しく異なるからである。彼等は公司と称し、店内に陳列する品物は総て個人がこれを持ち寄り、公司に預けて売りさばく商法で、日本の株式が資本の持ち寄りであるのに引き換え、彼等の方は現物の持ち寄りであるから、銃制ともなれば総ての所有者が商品を自宅に持ち帰ることになるのである。従って、せっかく作った銃制規則も現実には取り締まりの手加減を加えざるを得なかったのである。
 私はこの規則制定が終わると警察大学の教官を命ぜられ、経済、防空、日本語を担当した。私は、日本語を教えるのに『通訳をする者が居るか。』と尋ねたところ、『通訳はいない。』と言う。『私にはマライ語が判らない。マライ人には日本語が判らない。如何にして日本語を教えるのか。』と質したところ、『そこは自分で工夫せよ。』と言われた。
 赴任すると同時に生徒達を集め、『この中に日本語を話せる者が居るか。』と尋ねると、モハマソピートという警部補が中国語、タイ語、英語、日本語、印度語の五カ国語を少しずつ話せると言った。まず日本語についてテストして見ると、中々話せた。そこで、早速この者を通訳に採用し、担任の業務を教えた。
 日本語はむずかしい。例えば、『行って来ます』等、日本では常に使って居るから気付かないが、彼等は〝行く〟は〝行く〟、〝来る〟は〝帰る〟である。この言葉は、使用の目的にしたがって別々に使われて居るのに、日本語ではこの二つが一つに重なって居る。私はこの説明に、
「お前達は使いに行ったら帰って来て報告するであろう。行くだけではない。行ってまた帰るんだから、〝行って来ます〟と重なっているのだ。」と説明し、ようやく理解させたことがある。また経済学などというものは、英国統治下では現地人には少しも教えられてなかったので、なぜ物価が上がったり下がったりするのか、その理由さえも彼等は知らなかった。
「今、教官の話を聞いて初めて物価の上下する理由が判った。」と非常に喜ばれた。
 私は軍政監部に六ヵ月勤務したが、どうしても第一線に出たくて上官に頼み、マラッカ州に転任した。マラッカでもやはり治安課勤務となり、本部詰めであったが、これも六ヵ月して上司に頼み、セントラル警察署長に出してもらった。
 セントラルはマラッカの町を管轄する警察署で、比較的に治安状態も良く、許可、不許可等の事件が多かった。平凡に時間が過ぎるので、更に治安状態の悪い所を希望し、ここにも六ヵ月位居て、次は最も治安状態の悪い所と言われたジャシン警察に出してもらって、署長兼防衛隊長となり、署員二百七十名と防衛隊員三十名を指揮監督する傍ら、共産軍の検挙討伐に当たった。
 共産軍は常にジャングル地帯に隠れ、夜になると各所に出没して、民家を襲撃し、暴行、殺人、略奪を行うので、検挙討伐も中々困難を極めた。また、農業も奨励したが、猪が沢山居て増産どころではなく、その為には猪狩りもしなければならなかったし、弾丸は限られているので、民間人の持っているものを高値で買い求め、敵の手に渡るものを一発でも少なくする様心掛けた。共産軍は沢山検挙したが、主謀者のみを逮捕して処罰する外は、日本軍への協力を誓わせて釈放した。
 昭和二十年八月十五日、日本軍は遂に敗れた。天皇の詔勅は下り、講和をすると言った。私達は最後の一兵まで戦うと言った過去のことを思い起こし、残念に堪えなかった。しかし詔勅が下った以上戦うことは出来ない。私はこの日、署員及び防衛隊員を集めて、天皇陛下の詔勅を伝え、戦争の終結を告げた。それまでは、白色人種(マライ語オランプテ)に対する反抗心を煽って日本への協力をすすめたのであるが、もはやその必要もなくなった。マライ人は、
「戦争が終息すれば日本は引き揚げるのだろう。我々マライ人はどうなるのか。」と質問した。私はこの時、
「マライの住民は中国人であると印度人であるとを問わず、皆が団結して自由を勝ち取り、マライ政府を作り、マライ人によるマライの政治を打ち立てなければいかぬ。」と答えたのである。すると、
「今日本が引き揚げても今後二十年も経てば再び戻ってくる。アジアはアジア民族が治めるのだ。」と彼が言った。これを聞いた時、私は戦闘に負けたが、戦争には勝ったのだと確信した。私達がマライに着いた当時のマライ人は『なぜ国が必要なのか、政府が変わっても、私達はその日その日が楽しく送れれば良いのだ』と答えたのである。しかし、この戦いが終わる時になって、初めて彼等も国民意識が燃え上がり、国の独立と世界平和への道を探究することになった。現に、この戦争によって独立した国が幾つあったか、白色人種の植民地は次々と解放されたではないか、日本のいう聖戦はかくして成ったのではないか、私の言う『戦闘に負け、戦争に勝った』とはこの事である。
 マライは常夏の国である。正月も二月もない、何時も真夏である。植物は常緑で花も果物も単調である。バナナ、ドリアン、マンゴ、マンゴスチン、チク、パパイヤ、イモ、南瓜、茄子、タピオカ等が常時ある。米や芋を作るにも時期がない。何時でも気に入った時に作れば良いのである。襯衣(シャツ)五枚、猿股五枚、蚊帳一張り、毛布一枚があれば足りる。引っ越しも極めて簡単である。鞄一個を携帯すればそれで良い。暑いといっても太陽のある間だけで、夜の十時ともなれば涼しくなり、寒い時もある。スコールは一日五、六回もあり、道端は綺麗に洗い流されて、素足で歩き、素足で部屋に入っても少しも汚れない。また、日陰にさえ居れば決して暑いとも思われない。汗が出るのでその都度着替えをしなければならないから、着替えはどうしても必要だが、暮らすにはむしろ日本より暮らし良い。ただ、蚊に食われると危険である。彼等はマラリヤ菌の媒介者だからである。日本人で南方ボケという言葉を聞くが、それは常夏の国では四季がないからだ。去年の何月頃かと言われても一寸思い出せないことが多い。
 さて、戦争が終わると中国共産軍の兵隊が一斉に立ち揚がり、装備の少ない警察署を襲撃した。私も、当然これ等の攻撃を受けるものと覚悟し、警察官と防衛隊員をそれぞれの場所に配備してこれに備えた。しかし、軍隊の装備には抗し得ないと考えた警察官は、一人減り二人減り逃亡して、私の周囲には僅かに三十名位が残った。もはやこれまでと思い、応援隊の出動を要請したが、『本部でも同様の状態で応援隊を送ることは出来ない。一同引き揚げ本部へ合流する様に。』との指示を受けたので、残留部隊を率いてマラッカ市に向かった。その前に、敵共産軍より憲兵大佐が私の下に来て、
「貴方は森本さんですね。」と質した上、
「貴方が日本へ帰られるまでは、私の方で身辺の警備を致しますから安心して行動して下さい。」と申し込まれた。何故私が敵の警備を受けるのかと不審に思ったところ、同大佐は、
「我が軍がかつて貴方には温情ある裁きを受けているので、今回は私の方で貴方をお守りするのだ。」と答えた。私は他の警察署が共産軍の占領下に置かれたので、当然私の所も攻撃せられるものと覚悟し、部下の配備を行ったのであるが、攻撃を受けてないばかりか、私の身辺さえも警備すると言われ、頗る面食らった。結果的に、私は引き揚げに当たって何の攻撃も受けず、無事本部に合流することが出来た。
 この事は既に敵側より本部に報告されていた様子で、私が本部に引き揚げると、州長官より呼び出しを受け、『これまでに我が軍の没収された自動車や電話の返還を敵側と交渉してもらいたい。今の我が軍には敵側に行ける者がいない。是非とも、君にこの話をつけて来てもらいたい』と下命された。私はここで一個小隊の軍隊を従えてバタンマラッカにある敵の本部に向かった。この時も私の前方には敵の憲兵大佐が護衛の為、先導を務めているのが見えた。私はこの様にして無事に敵側の本部に到着し、部隊長の中佐と面会し、自分の使命を伝えた。すると同隊長は私に対し、
「今私が質問することに答えてもらい、その回答如何によっては貴方の申し出を実現しましょう。」と言った。何の質問かと待っていると、
「日本軍は我々に対し、日本と中国とは兄弟であると言った。それにも拘わらず山下将軍は我々の同胞二千人の首を切って昭南島の海に棄てた。それでも兄弟と言えるのか。」との質問であった。私が、
「中国人を殺させたものは中国人である。日本軍は総て白紙で、この島に上陸して居る白紙の日本人に情報を提供し、敵として処断させたのは貴方の国の人間ではないかと思う。」と答えると、
「なるほど君の言う通りかもしれない。宜しい。それでは今日中に総ての連絡が取れる様に電話だけは復旧させよう。しかし自動車は我が方でも輸送の為絶対必要だから全部を返すという訳には行かないが、半数でよければ明日までに返還するとしよう。」と回答された。私は、
「もっともである。半数でもよろしいから返還して下さい。」と一存ではあったが、返答をして、この交渉を取りまとめ、州本部に帰還した。州知事もこの交渉妥結を喜び、翌日からは不自由ながらも通信運輸の自由を取り戻すことができたのである。
 中国人という民族は非常に義理堅くて相互の扶助に徹した民族である。何の関係もない人でも、中国人であるという一事で皆が寄り集まってこれを助け、病めば治るまで面倒を見て、治れば更に就職を斡旋し、家がなければ小屋を作って無料で貸してやるという風である。私のことも、こうした理由からの身辺の警備となった様である。
 私達はその後三日位マラッカ市に居たが、そのあとはアロガジヤの宿舎に移された。更に五日位経った時、英軍がマラッカ市に上陸し、日本軍の武装が解除された。私も折角保土ヶ谷警防団から贈られた軍刀も接収され、全くの無腰となって寂しかった。
 我が軍の戦士達も、最後の一兵迄戦う決心を持って居たのに、無腰となってしまった。憤懣やる方ない身空を案じ、一人の兵士が手榴弾を爆発させてその命を絶った。私はこの事件を眺めながら、
(何故死んだんだろう。たとえ死を選ぶとしても、戦って後に死亡しなければ無意味ではないか。)と考えた。マラッカ市に残された兵や軍属達は英軍の使役として随分酷使されたと伝えられたが、私達の方はまだまだ使役にも服さず、コウモリ等を獲って食べていた。しかし、それも一週間位で、今度は全くの武装解除を受け、リュック一杯の品物を携帯する身軽さでジッセという村まで行軍させられた。
 ジッセは遙か向こうに山が見られるだけのゴム園で、近くには英軍の宿舎が建っていた。私達はここで初めて英軍の使役に服する様になった。それまでは食糧も充分あって、後二年間の生活は保証されるということであったが、ここに到着して二日目には英軍の食糧が不足しているから借りるという名目で全部を接収され、その日から我が軍に対する支給は米一日二勺五才と定められた。一日二合五勺を入用とする食糧をその十分の一に切り詰められ、軍票は通用しないとすれば、必然的に自己の持ち物を整理する以外に方法がない。持てる者はこれを売って金に換えたが、私は英軍の輸送に自分の荷物を託した為、それらは総て英軍に接収され、必要な身回り品しか残っていなかった。売るにも売る物がない。欲しいものも買えない。腹は減る。金はないので蚊帳を裂いて網を作り、川エビをすくったり、針金を曲げて釣り針を作って川魚を釣って食べた。他の者はカタツムリを捕ったりして食べていた。
 こうして三ヵ月が過ぎた時、『私達が作ってあったタピオカという芋を掘らせてくれ』と申請してあったのがようやく許可になり、芋掘り隊を編成して毎日タピオカ山に行った。タピオカはそのまま蒸しても饅頭にしても美味しく食べられた。米の不足を補うにも充分であった。また、英軍は味噌は汚いもの位に考え、手を付けなかったので大変助かった。私達は唐芋の茎を採って来て毎日味噌汁を作った。梅干しも英軍が手を付けないので、梅干しの酢を採って寿司を作った。英軍に没収されたトランクの中には家族の写真や子供達の土産にと買っておいた時計が五個、勲八等の勲章、御大礼記念章等も入れてあった。それが没収されたと知り、それは私だけではないので止むを得ないとは思ったが、何となく寂しかった。
 英軍の使役は全く馬鹿馬鹿しくて手持ち無沙汰で困った。五十人程の使役を出させ、百坪位の庭を、十時から五時まで掃けと言う。しかも、休んではいけないと言って見張りを付けている。またある時は、スプーン十本を持たせ、十時から五時まで磨け、しかも休むなと言う。全くの難題である。有る仕事は楽だが、無い仕事を長時間にやらされてはたまったものではない。つくづく敗戦の苦しさを味わされた。
 使役が終われば自由時間となるので、私は兵舎に居る仲間三十人ばかりの髪を刈ってやったり、畠を作ったりした。この方が楽でもあり、楽しみでもあった。
 夜になると月を眺めた。敗戦後の抑留地での月、それは全く寂しいものである。阿部仲麻呂が歌った三笠山とはまるで違った月である。しかし、故郷を想うの情には変わりがなかった。見るところ見の境遇が変われば、美しくもなり、寂しくも感じられるのが月である。嗚呼、何という寂しい月であろう。
 こうして、また三ヵ月が過ぎた。この時、私達には最も嬉しい命令が出た。それは内地への帰還である。皆喜んだ。急に生気を取り戻した。私はマライ在住以来、小食に慣れていたので、他の誰よりも頗る元気であった。喜んで支度を整え点検を受け、武器、貴金属の所持のないことを確かめられてから、行軍の徒に就いた。ここからシンガポールまで二日の旅で、私達は内地帰還者の第一便として乗船出航した。
 今度は戦いが終息しているので途中襲撃の心配もなく、水も豊富であった。沖縄までは熱帯で夏着、それよりは冬で急に寒くなった。飛び魚は弧を描いて船の上を飛び越えた。
(妻や子はどうして居るだろう、定めし借金も出来ているだろうなあ。)などと考え、考え、昭和二十一年の二月十一日に宇品港に着いた。
 私達はホッとした。寒いので外套が支給された。風呂にも入り、身体から衣類まで消毒され、一泊の後、解散。各人各自の職場に帰ることになった。私は宮本君と共に大阪まで同行し、ここから別れて神奈川県庁に向かった。そして警察部に出仕し、即日神奈川県警部に復帰はしたものの、定員外の為、欠員が出るまで自宅に待機せよと言われ、いよいよ郷里に向かって出発することになった。途中、元居た戸部署に寄って見たところ、外人が杭の上に足を乗せて日本の警察官を指揮しているのには落胆した。また、道では髪を赤く染めた婦人が外人と手をつないで歩いていた。私はこんな状態を目の当たりに見せ付けられ、何だか嫌気がさし、再び神奈川県に復帰したいとも思わなかった。
 戸部署では嘗て私の命名した子供等が、焼け野原となった横浜に、一人も欠けず生存している。『これは皆、貴方の御陰』と喜ばれ、皆が集まって歓迎会を開いてくれた。
 翌十三日には郷里の山田駅に着いた。出征の時とは異なり、誰一人出迎えてくれもせず、寂しい帰還であった。駅に到着すると、一路物部の母を尋ねて家族と対面し、皆から喜んでもらった。こうして妻や子供から、私の不在中の苦しかった生活状態も知ることが出来た。
 戦地に在った私達はただ戦うのみに心を集中し、手駒少なき弾丸や飛行機を気にして、一体内地では何をしているのだろう、何故弾丸を送ってくれないのだろう等と考えたが、まさに国民総動員の戦争にあって、内地住民といえども、軍需品の生産に食糧の増産に、防衛施設の構築に、その身の休まる処もなかった状況を聞き、これを知ると共に、ただ米兵の原爆による攻撃とソ連の不可侵条約の侵犯による攻撃を恨むのみであった。
 原爆は一朝にして広島、長崎を焦熱地獄、廃墟とし、戦闘員にあらざる国民までも殺傷してしまったのである。これらの攻撃は、永久に日本人の心に焼き付き、離れないであろう。
 さて、私は家に帰って家族の話を聞き、もしも私が元の職業に復帰するとしても、月給手当合わせて月三千円位、家族は九人、闇米は一升百五十円から二百円である。到底生活は立ち行かない。物は不足し、総てが暗がりから暗がりへと流されている。統制は未だに解かれていない。家では細々ながら下駄の小売りをしていたが、仕入れる資本もない。止むなく兄の許に行き、仕入れ代金千円を借りた。私はこの時、今の商売は大きいところから大きくする。しかも早く大きくすべきだと主張したが、兄は商売は小さいところから大きくすべきだと言って私の主張を入れず、私が一万円と言うのに、兄は千円しか貸してくれなかった。止むなく千円を借りて規矩子の友達である下駄問屋に行った。問屋では、良くお帰りになったと喜んでくれて、下駄の仕入れに応じてくれたが、私の留守中に仕入れた下駄代の不足が四百円余りあったので、残りの五百円余りしか仕入れが出来なかった。リュックに入れて持ち帰ったが、ただ一個の荷物に過ぎない。
(こんなことでは商売にはならない。)と思ったが、物資不足の折りであったから、たちまち売れる、また仕入れるで、どうにか商売にはなった。
 しかし、家族の多い私の家ではそれだけに頼ることは出来ない。私は考えた。一週間ほとんど寝られなかった。なぜなら、商いは総てが闇取引である。かつては統制の規則を作り、またその取り締まりをした自分である。加えて、私はまだ現職の警察官である。かといって、違反となる様な仕事は出来ないと言って手を拱いていたのでは家族の生活が出来ない。人々は皆闇を食い、闇を行っている。自分だけ正しく生きようと考えても到底生きられるものではない。長男も言った。お父さんも子供の為に犠牲になってもらわなければと、私もまた、この辺で決心するより外なかった。
 私は更に兄と従弟の家をそれぞれ尋ねて、そこに出来る包丁と鎌を売り歩いたが、なかなか思う様には売れない。こうしているうちに、前の浜田氏が『じゃこを売ったらどうか』と提言してくれた。そこでじゃこを仕入れて、帰る途中で売ってみたところ、たちまち売れて仕舞った。塩も売った。醤油も売った。何と言っても生活必需品である。売れ行きは頗る良い。しかし闇取引であるから、統制違反に問われることは必然である。私は警察から身を引くことにした。昭和二十一年七月、二十四年余り勤めた警察生活ともお別れすることとなり、私はこの日辞表を提出し、同年九月に退職した。
 いよいよ退職すると何となく寂しかったのと、闇生活に光る警察の眼がうるさくて、毎日毎日が緊張そのものであった。ある時は佐岡から高知へ酒や米を運ぶ。帰りには前の浜を回ってじゃこを買って運ぶ。また、ある時は岩村から大根、人参、田芋を運ぶ等ノーパンクの自転車に乗って毎日毎日、三十里の道を乗り歩いた。警察にあってはお抱えの自動車に運んでもらっていた私が、ノーパンクの自転車で三十里からの道を乗り回すことはかなりの苦痛で、身体は痩せ細り眼は窪み、昔ながらの風格はなかった。しかし九名の生活を支え、子供達の教育を終わるまでは何としても頑張らなければならぬと考えて頑張っていた。
 私は子供の頃いやという程喧嘩をしたので、大人に成ってからは人を殴る等ということはなかったが、しばらく生活の疲れを覚えてくると気持ちの上にも苛立ちが現れ、一寸した妻の口答えにも腹が立って、茶碗を投げ付けて顔に傷を付けたことがあった。私はすぐに済まなかったと謝り、手当をした。人間修養を積んでいるときはこんな事もなく、一家団欒のうちに過ごすことが出来るが、追い回された生活をしていると折角積んだ修養も忘れ、自己喪失の生活に陥るものである。〝衣食足りて礼節を知る〟と故人は言った。誠にその通りである。
 さてこんなことを繰り返しているうちに、前後三回警察の御厄介になった。しかし、世相皆闇取引による生活を繰り返しているので、法が存在することがむしろ国民生活を破壊している。悪法はすべからく廃止すべきだと叫んでいた。その後幾年か経って遂にこれ等の悪法が廃止されると共に、経済違反によって処罰されたものの総てが復権した。
 こんな生活を繰り返しているうちに妻の母より家を買わないかという話が持ち込まれた。私はこの時、借家に継ぐ借家で、しかも家主との折り合いも悪く困っていたので、
「家は欲しいが金がない。」と言って話していたところ、従弟の坂本五郎が、
「五千円貸してやる。後は兄に借りたらどうか。」と言ってくれたので、ようやく妻の母が借りていた家を買い取ることに決めた。この頃、美輝は世話課を辞め、新聞社に勤め、順子は高知県立中央保健所に勤めていたが、泰子は店番をしながら洋裁学校に通って居た。いよいよ家を買うことになると、泰子が、
「幾らいるのか。」と聞くので、
「一万円位入用だ。」と言うと、
「一万円なら貯金してある。」と箪笥の抽斗から出してくれたので、金を親類から借りることもなく家を買うことが出来た。
 履き物商の方も裏長屋ではあったが、良く売れた。また、この頃新円、旧円の切り替えがあって各商店共品物を貯えることに執心し、何れも売ることを差し控えた。この事は私達に幸いして、仕入れれば売れる、また仕入れるで高知まで夫婦で三回も通ったこともある。新円、旧円の切り替えこそ、私達にとっては勿怪の幸いとなった訳である。
 さて家は買ったが、まだ元通りの借家生活を続けていた。こうして十年の月日は過ぎたが、なお明け渡しては貰えず、家賃は入らず、自分の方は家賃が要るという生活が続いた。しかし、他人ではないので出て貰うことも出来ず、物部の兄と相談しても、母が兄との同居を嫌って立ち退こうともしない有様であった。
 こんなことを繰り返していると、生活の設計も立たないので、とうとう母に相談し、借家の方へ母に移ってもらい、自分達は買い取った家に移転した。なお、私達が借家に住んでいる際、順子が嫁入りした。長女が嫁入りすると今度は長男の嫁迎え、二女の嫁入り、三女の嫁入り、四女の嫁入りと隔年毎に続いた。この頃になると貧乏はしていても金のやり繰りが付く様になっていた。それは商売も順調に進み、恩給も段々に増加したからである。
 昭和二十六年には町立青果市場の経営権を譲り受けた。この市場はかつて山岡氏が経営していたが、放漫な経営が災いして多額の負債を残した為に、その後農協市場や香長小売り市場の出現で出荷状況も極めて悪く、ことに新しい経営者の私が土佐山田町に住み着いてわずか五カ年余り、私を知っている人も少なかったので、損失はないが利益も上がらない状態で経営はかなり苦しかった。しかし一年、二年と経過するうちに段々と信用も得られ、その後の経営状態は幾分好転してきたのである。経営が良くなると、反面、貸し倒れも増大した。
 私は少年時代に医師を相手として商業経験を積み、途中官界生活に入っていた為、人に倒された経験に乏しかったので、私が倒されるなどとは考えても見ず、貸しが重なっても先方にも都合があるもので、儲けさえすれば必ず支払ってもらえるものだろう位に考えていたが、商売というものはそんな甘いものではない。『品物は借りても利は付かない、金は借りれば利息が付く。それなら品を借りた方が得だ』という商人達の考え方と、乱立した青果市場の客引とが禍して、資金だけでは到底経営が成り立たなくなり、闇金融により二十万円以上の借金をした。利子は月五分という高利であった為、働いても他人の資本を殖やすに過ぎないと言う結果に終わった。私は銀行にも金融公庫にも頼んだが、どちらからも貸してもらえなかったので闇の金融に頼らざるを得なかった。すると私に闇の金融をしていた人が一年有余も真面目に金利の支払いを受けたことに感激し、融資の相談を高知相互銀行に紹介してくれた。その後の私はようやく銀行からも公庫からもその融資を認められる様になり、幾分ずつでも自分の利益が得られるようになった。
 一方、小売りの方は専ら妻に任せてあったが、この方は極めて良い場所であるにも拘わらず、一向に振るわない。げに私という男は一方が良くなれば一方が悪くなるといった運命に生まれ合わせているものと見え、なかなか思う様な成功を収められない。小売りの方でも七万円の剰余金が出来たと思うと、競売相手が現れて損ばかりの販売をしなければならず、順調に進みつつあるかと思うと、どんと借り倒される。かつて私の若い頃には、三十円の貯金が出来ると、必ず誰かが病に倒れ、負債を沢山生じて、返済のため散々苦労をしなければならなかった。
(一体いつになれば万事がスムーズに収まるものだろうか。)と考えさせられることが度々であった。
(儘よ、なるようにしかならなぬのだ。働くだけは働こう。働きさえすれば生活は出来るのだ。)と、一日も休まず働き続けた。
 また、一方酒も好き、女も好きであった。良く飲み、若い頃は良く遊んだ。酒を飲むと理屈を言った。しかし乱暴はしない。暴れる程馬鹿なことはない。自分が傷つかなければ人を傷つける。言うことだけであれば、仲違いする位で、いつかは双方の間に了解が取り付けられる。言う以上は筋を通すことが必要である。『屁理屈を並べる程馬鹿げたことはない』と考えていたので、七十年の今日まで顧みて、誰に恥じることもない。
 さて、子供達も私が警察官をしていたときと、商売人と成ったときとでは大分差がある。皆父の職を見て育っている。長男、長女は俸給生活、二女、三女、四女、五女、二男はいずれも商業方面の仕事に就いた。誰も彼も私より一歩前進した方向を進んで居る。一人の落伍者もなかったことは、まずまずの成功であろう。六十三歳を迎えた頃には家も売った。病に倒れ、医師にも見離されたが、私はまだまだ回復の見込みを持ち、入院治療した。十ヵ月の後ようやく退院し、再び元の職業に携わることが出来たが、この頃は主として次男に経営を一任し、私はそれを見守るだけとした。
 人は何をするにも経験が必要である。たとえその事が失敗に終わってもそれはそれなりに経験を積むことになる。学問と実際とは一致しない。それは経験によってのみ知ることが出来るのである。任した以上は任して置けばよいのだ。ただ、放漫では困る。その心理は妙なもので、これは良いことだと思っても、相手の受け取り方一つで反対の結論が生まれるのだ。怒ったり、腹を立てていたのでは商売は成り立たない。自分を抑制して人に当たることも確かに一つの方法である。と言って頭ばかり下げていてもいけない。虚々実々のうちに成功への途をつかまなければならない。私はとにかく信用を第一に上げた。信用さえあれば誰もが見離さない。信用を得る為には努力と契約の履行である。 『一日位遅れても』と言う様なことは嫌いだ。それが信用だ。
 私は『あの人が市場を経営している以上心配ない』と人々から認められ、宣伝もして貰えた。黙って居ても他人は見ているし、良く知っている。自分の事を自分が宣伝する必要はない。私のしていることは人もこれを見、真似ても行く。親が警察官であったからといって、また私が警察官に成った様に、親の職業は最も尊いものと考えているのが子供達である。役人生活を見て来た者は役人を選び、商業生活を見て育った者はそれが尊い生活であると考える。そして、またその道を選ぶ。好きとか嫌いだと言うのではない。見様見真似というが、自分の行動は常に自分の妻子を感化し、他人をも感化して居るのである。暴力者の子供には暴力者、政治家の子供には政治家が生まれている。誠に心すべきであると思うが、七十年経った今日、振り返って見て、今更改められるべきことではない。ただ私が正しく真面目に生きて来られたことを喜ぶだけだ。
 私の子供達も、私の留守中母を助け、母もまた己れの食を減らしても子供達の成長を助け、また私が商業を始めるに当たっても、子供達が次から次へと入れ替わり立ち替わり私を手伝ってくれた。げに私という人間は幸せであった。周囲は必ず私を護り、私を助けてくれた。七十年の今日も、未だ未だ人様は良く私を見守ってくれる。誠に感謝に堪えない。余生あれば幾分でも奉仕の生活がしたいと思う。しかし、己の生活に追い回されていたのではそれも出来ない。せめて話だけでもと、逢う人毎に想い出を伝えている。
 世の中は変わって来ている。老人と若い者の思想は色々と異なるであろう。しかし正しいものはいつまでも正しい。天と地の間にあるのが人間である。禽獣には出来ないことも人間には出来る。宇宙は壊してはならない。宇宙を守り、宇宙をより良く利用し、万物を育成すべきだ。それが私達に与えられた使命である。禽獣も生み、また育てる。しかし、それは己の子孫に限られている。人間はどうか。天地の法則に従ってあらゆるものを正しく育てるのが人間である。山川草木、禽獣、鳥魚に至るまで、皆その育てる力を人間に借りているのではないか。また人間が助けているではないか。人間が万物の霊長と言われる所以もこの辺にあるのではないかと考える。
 万物は皆、己の子孫を繁栄せしめようとしている。我等もまた然りである。己より子、子よりも孫と、次から次へと少しずつでも繁栄させたいと願っている。幸いにして私の子等は健康にして健全なる生活を送っている。孫も十二人となった。老後を楽しませてくれるものは子等の繁栄である。七十年の生涯が苦難に満ちたものではあったが、人々は良く私を支えてくれた。どうも有り難う存じました。
 皆様の発展と繁栄を祝し、この稿を終わる。暮れぐれも我と我が身を亡ぼす様な人の居ない様、人類相互の扶助と繁栄を祈る。

カテゴリー: 随筆

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