この学校に勤め始めて二十年以上になる。
「塾長が『学校作る』言ってるから、できたら戻って来い。」南西教室に赴任する際に、上司の長瀬先生が自分に掛けてくれた言葉通り、学校創立当初から教諭として、塾から学校に配置換えになった。校長は田島先生だったが、学監、副学監という制度で、実際学校の主だったことは副学監の長瀬先生がほとんど仕切っていた。
 自分は高校の理科の免許しか持っていなかったが、臨時免許を県に申請して、主に物理と数学の授業を担当した。一年目は生徒数も、中学、高校共に百名と少なかったこともあり、予備校にも出向させられて、物理と数学を教えさせられた。
 学校は小高い山の上にあり、県の認可を取り付けてからの突貫工事で一気に仕上げたため、校舎自体は仕上がっていたが、校舎としての使用の認可は下りてなかった。また、山の上までの道も未舗装で、つづら折りのカーブの続く山頂までの道に就航すべき県交通のバスは、運航していなかった。そのため、山頂の臨時校舎までは、時間を決めて生徒たちを教員が連れて登り、連れて下した。登下校の時間外は、まだ工事の車が上り下りしていたので、中一生百名、高一生百名の計二百名を学年ごとの二列ほどに並べ、
「俺を抜くな!」などと、早く行きたがる生徒を窘めながら、上下した。
「お山の先生は、(色が)黒いね。」新学期が始まり、五月の連休近くになった時、予備校の事務員さんに笑いながら言われた。自分と同じように、何人かの教員が学校から予備校に出向させられていたが、その誰もが例に漏れず日焼けしていた。
 初年度は専任の教諭が少なかったこともあり、テニス部と卓球部の顧問をさせられた。卓球部については、中学棟の生徒コーナーに卓球台があり、問題なく練習ができた。しかしテニス部は、テニスコートにする広さの土地はあるものの、コート自体は無く、最初職員室のプレハブがあった場所の『石を生徒に拾わせてコートにする』といった壮大な(?)構想があるのみだった。
「みんなで石を拾え!きれいになったら、コートができる。」テニス部に入部届を出した部活希望者達に、三か月ほど石拾いをさせたが、一向にらちがあかなかった。
「校長先生、生徒に石拾いばかりさせてますけど、切りがないです。テニス部なんかできませんよ!」黙ってたら、生徒達が可哀そうに思えてきたので、校長室に直談判に行った。一言二言、田島校長に進言すると、
「分かった。業者から見積りを取ってみて。」自分としては肝を据えて校長室に入ったので、若干拍子抜けだった。後でよく考えてみれば、経営上の時期的なこともあったかもしれないが、校長室の窓からはテニスコート予定地が一瞥で見渡せるので、『校長も三か月間、生徒達が放課後、石拾いに明け暮れたことを知っていたから』なんじゃないかと思った。早速、業者を探して見積りを取ってみると、『ハードコートだと、一コートで五百万円、クレーなら三百万円』とのことだった。当時オムニは、まだ一般的ではなかったので、ハードかクレーのどちらかだったが、学校のテニスコート用地は三コート分のスペースがあるので、ハードコートだと千五百万円ということになる。
「それは高い…。」校長室に報告に行くと、そう言われた。確かに…。
 数日後、事務に降りると、
「森先生、聞いたよ。僕が業者知ってる。コートもやったことある言ってたよ。」事務の仲岡さんが声を掛けてきた。
「えっ!それ教えて。」仲岡さんに業者を紹介してもらって経緯を話し、
「で、いくらでやってもらえます?」と業者に問うと、
「全部で三百万円でどうでしょう?」早速、校長に了承を得、稟議書を書いた。
 工事は数日はかかったが、ローラーとかの専用の工事車両が入ったら、小石や埋まっている大きな岩なんかも削ったりできるし、自分の感覚としては、『あっという間』で、『一学期間生徒達に石を拾わせたのは何だったんだ!』って気がした。最終日には、砂を混ぜた土が敷かれていて、その上に白いビニール製のラインが乗せてあった。そのラインを釘を打って固定することは、自分達がやらなければならなかった。釘と金槌がいくつか置いてあったので、生徒達に、
「できるだけ真っすぐ、真上から叩くように!」などと言ってお手本を見せようとしたが、地面もそんなに均質ではなく、釘もなかなか真っすぐには入ってくれなかった。まあ、若干曲がっては見えたが、みんなでラインも固定して、三コートそれなりに仕上がった。 二学期が始まると、いよいよテニス部も、晴れた日はコートを使って練習ができるようになった。部会を開いて、決まったキャプテンが鈴木安志だった。鈴木は中学時に軟式テニスをやっていて、責任感が強く、他の生徒達からの信頼も厚かった。
 対外試合があるときは、テニスは男子と女子、中学と高校の別にエントリーするから、実際は四つのクラブがあっても良い訳で、コートの使用時間もそれなりに割り振りはしたが、初年度は高一と中一だけということもあり、それぞれの部員同士はもお互いに顔見知りであった。
 一年目の体育祭は、三回流れて中止になった。予備日の設定(三日後位、実際二日後にしておけば、実施できた)が悪かったのか、雨男(副学監、校長か体育教科主任との噂が流れた)が居たためか、いずれにしろ規定通りに中止にされた。とりわけ、三度目は、誰が見ても中止すべき土砂降りの天気であったが、応援団員(特に高一生)が、雨の降り続くグランドに出て、
「先生、やろうや!」と叫びながら、ひたすら応援をし続ける姿は、まだ脳裏に焼き付いている。(雨が降っていたので、定かではないが、彼らはおそらく、泣きながら応援していたはずだ。)実質中止を決めた副学監が、職員室からグランドを眺めながら、
「可哀そうやのう…」とつぶやいたのを私は耳にした。
 文化祭は天候に関係なく実施できた(冬だったし、多分晴れだった)ため、模擬店や展示物中心ではあったが、普通に実施できた。私自身は、保健室の先生と一緒にギターをバックにハモった記憶がある。
 次年度にはテニス部にも新入生が入り、鈴木は新入の高一生からだけでなく、中一生からも、『先輩』とか『キャプテン』と呼ばれ、結構慕われていた。そんな彼が高三になる前に、
「先生、クラブ辞めたい。」と切り出してきた。
「えっ!何で?」
「勉強したから…。」
「そんなの、帰ってからやればいい!お前を『キャプテン、キャプテン!』て言って慕ってる後輩は見捨てるのか?」
「うーん…。」
「週に何回か、出て来られる時だけでもいいから、出て来て面倒見てやれ!来年の六月の県体まで籍はおいておけ。」慕ってる後輩を人質にしてるような感覚もあり、若干気が引けたし、我ながら姑息だとも思ったが、それ以後彼からは『クラブを辞めたい』という言葉は出て来なかった。
 年度も変わり、六月の県体までの間、鈴木はそれなりに部会や練習も出て来た。当然、周りの部員達、とりわけ彼を慕ってる後輩達には『辞めたい』と彼が言ったことは悟られる兆しもなかった。
 六月の県体の日、男子テニスの団体戦の相手は一条高校だった。創部三年目のテニス部が団体戦で勝ち抜いていけるとは思ってはなかったが、出場する部員達については、セルフジャッジで行われる試合でのルールの周知や他校に対して恥ずかしくないマナーを身に着けておくことは、それなりに指導していた。
「先生、キャプテンがまだ来ていません!」試合の開始予定時間の十分程前に、高一生が注進に来た。
「え?ん…。補欠、誰やった?」
「ぼ、ぼくですけど…。いいんでしょうか?」
「そんなの、不戦敗は有り得ない。出れるように、用意しとけ!」自信無さ気な補欠の選手に着替えに行かせ、しばらくして、
「先生、今来ました。」と、鈴木。
「お前、何やってたんや!時間が無いから、早く着替えて来い!」試合開始時間の五分前には、エントリーを完了しておかなければならなかったので、鈴木が来たのはギリギリの時間だった。鈴木が来て間もなく、
「先生ですか?」と若い女の方から声を掛けられた。
「あっ、はい…。」(あまり先生らしく見えなかったようだ)
「鈴木君という生徒さんが、大変なケガしてます。脛のあたりが…。」と彼女も主催の本部から来られた先生のようだった。ちょっと鈴木遅刻の理由の一端が把握できて、怒りは収まってきた。
「先生!着替えて来ました。」
「お前、行けるのか?本部の人が、『脛が掘れ込んでます』みたいに言うてたで。どんなん?」脛を確認しようとしたが、分厚いサポーターしか見えなかった。
「けど、先生、補欠出すより、僕が出た方がいいでしょ?」
「ん…。」何も言えなかった。正直、当時はきちんと練習に出て来ていた部員数自体も少なく、エースと補欠の力の差はかなりあった。それが、補欠選手の『(ぼくで)いいんでしょうか?』という返事の原因になっていたのだ。
 試合は力の差はあったが、惜敗とは言い難い『順当負け』だった。ただ、シングルスのエース対決(盛岡VS鈴木)については6-0で完敗。一条の盛岡は県の強化選手の一人だったが、鈴木が全く歯が立たない相手だとは思わなかったが…。全試合(シングルス二試合ダブルス一試合)が終わった後、挨拶が終わり、鈴木がコートから上がって来た。
「先生、すみませんでした。」
「まあ、ケガしてたしね。」『気休め』とは思いながら、気遣いから、ありきたりの一言。
「いや、相手が強かった…。」鈴木は口を真一文字に結んだままだった。最後の方のゲームで、負けを覚悟してもベストショットを打とうとしていたのをずっと見ていたし、彼の悔しさは十分伝わってきた。
 後日、鈴木に、
「あの時は、なぜ遅れたの?」って尋ねると、
「来る前に三条通をチャリで行ってた時、犬が出て来て、それを避けようとして、滑って転んだんです。犬が『キャイン、キャイン』って鳴いて逃げて行って、周りの人達には笑われるし、すごく恥ずかしかった。だから遅れたんです。」確かに三条通はアーケードの商店街で、下はタイル張りなので滑り易い。今は自転車は通行禁止になっているが、短い商店街ということもあり、その頃は自転車も普通に通行していた。
 十一月の全国模試が終わり結果が送られて来ると、高三の進路指導が本格的に始まる。一人ずつ模試の結果をもとに、受験校を決めていくのだ。その際、最も参考になるのは、十一月の模試の結果である。当時の進路指導では、上位校の判定については河進模試を採用していた。
「東大なんかの判定は簡単なんっすよ。特に最後の難関模試は、上からチョンチョンチョンと切っていって、A,B,C,…と付けていくだけで外れることはないです!東大受験者のほとんどが受けまっから。ガハハハ…。」模試結果の説明に大阪から来た河進予備校の担当者(小太りの丸顔の方で、お世辞にも上品とは言い難い…)が、さも自信有り気に吹聴した。予備校等で受験指導の経験がある教員が居るとはいえ、学校としては初めての受験指導になるから、若干軽く見られてる…?まあ、最後の方の全国模試になると、それまであまり受験してなかった浪人生達も受験して、その分現役の高三生が押し出される(?)という現象が起こるのが普通で、最も受験生が多くなる十一月の全国模試の信頼度が高いことは間違いない。
 テニス部は理系が多く、理系でトップだったのは永森という生徒で、その生徒もテニス部だった。一度、
「永森、お前東大受けてみたら?」と声を掛けたこともあるが、
「先生、僕は医者になりたいから、東大なんか受けても…。」という返事。『東大なんか』という言葉に、
(ああ、永森は東大は絶対受けないな…。理系の東大受験者はゼロだから、合格者も出ない。文系に頑張ってもらうしかない。)東大合格者の人数だけが進学校の実績だとは思わないが、東大合格者数は進学校のバロメータの一つであることは間違いない。とりわけ、『進学校を標榜している』学校にとっては、受験生ゼロというのは、始めから負けが決まっている『不戦敗』のような感覚があった。まあ、受験できるレベルの生徒を育てられてないという厳然とした事実はある訳だから、『進学校とは言えない!』と判断されても仕方のないことではあるが…。
 受験日程が一人ずつ決まっていってるとある日、鈴木の主任だった田所先生が、
「森先生、鈴木がどこを受けるか決まりません。『どこ受けたい?』って尋ねても『ん…。』て黙ってしまって、らちがあかない。」
「鈴木の成績だったら、阪大の工学部を現役で行けたら、上等でしょうね。」
「そうでしょう。けど…。」その時は、自分も自分のクラスの受験校決定の面接があったが、『まあ、鈴木はテニス部の主将として、ずっとやってもらったし』との思いもあったので、
「じゃあ、鈴木に聞いてみましょうか?放課後来るように言って下さい。」
「お願いします。」ということで、面接をすることになった。
 今までの模擬テストの成績、本人の書いた志望校等のデータを主任から借り受け、面接に臨んだ。鈴木の成績は、実力テストの平均点では全体百名中十番で、理系の中で悪い方ではなかったが、そんなに飛び抜けた成績でもなかった。
「お前、どこ受けたいの?」
「ん…。」主任の言った通りだった。
「じゃあ、将来、お前は何になりたいんや?」
「金持ちになりたい。」
「金持ち言うても、いろんな方向からアプローチできるし、どんなことをやって金持ちになりたいんや。」
「ん…。」これでは確かに『らちがあかん』と思ったので、
「正直言って、お前の成績なら、阪大の工学部、現役でイケたら上等だと思うけど。」十一月の河進の難関模試の志望校にあった大学と学部を言ってみた。阪大の工学部もボーダーより結構下だったので、『これからの頑張りを期待して』の指導のつもりだった。鈴木が、絞り出すように一言。
「ん…。けど先生、そこは盛岡が受ける。」目から鱗が落ちた。
 面接が終わって、主任に報告。
「鈴木は阪大は受けない。盛岡という一条のエースに、県体でブチブチにやられてて、そいつが阪大を受けるらしい。だから、鈴木は京大か東大しか受けないはず。京大でもええけど、どっちみちダメもとで受験させるのなら、『東大やれ!』って言ってあげて!はじめから、理系は東大ゼロというのもシャクだし!」いくつかの模試データに書かれてあった志望校の中に東大がE判定となっていることは確認していたが、『私立の上位校が取れれば良いかな』という感覚だった。後日、主任から、
「鈴木は東大を受けるようになりました。」と報告を受けた。
 鈴木の受験は、青山学院から始まった。合格の知らせがあった日、進路に鈴木が居たので、
「お前、青学はミッション系やから、ネエちゃんきれいだし(結構偏見…?)、いいよ!」
「ほんと?」満面の笑み。
(これで、鈴木は大学生になれる!)そう思った。
 次の受験は明治大学。明治大学の試験日には、受験生の応援のため、自分がちょうど東京出張のまわりだったので、前日鈴木に『八時に門のところで』と、電話で約束した。当日行ってみると、
(まずい!)むちゃくちゃ焦った。試験会場は大学ではなく、予備校だったので、出入り口がいくつもあった。門がいくつもあったのだ。携帯とかは普及してない時代なので、鈴木を探して、出入り口をいくつか回ったが、さすがに半時間くらいでは、回り切れなかった。
「お、受験に来たのか、頑張れよ!」たまたま出会った予備校生、二人ほどに声を掛けたが、結局、鈴木には出会えなかった。入試が終わって、夕方、鈴木の泊まってるホテルに電話して、
「すまん、門がいっぱいあったし、ずっと探して回ったけど、見つからなかった。」と言うと、
「先生、半まで待ったけど来なかったし、寒くておしっこしたくなったから中へ入った。」と、憮然とした返事。全く面目なかった。
そのためか、明治大学はアウトだった。
 次は慶應大学。合格だった。
「えっ?慶應の理工合格だったら、上等や。浪人でもなかなか受からないよ。」
「ほんと?」満更でもないようで、手続きはすぐにしたようだ。
 私学のトリは早稲田。
(さすがに早稲田の理工は厳しいだろう…。)そんな思いを抱いてたのは、自分だけではなかったはずだが、
「先生、早稲田受かった!」
「ええっ!ホントに!それは実力ついて来てる。もしかしたら、東大もイケるかも!」
「慶應と早稲田だったら、どちらがいいの?」と言うので、
「それは、理工だったら早稲田かな。就職とかも考えたら。」と答えた。鈴木は早稲田大学も手続きをした。模試の結果だけから判断すれば、いくつもの奇跡が起きているような成果だった。そうこうしているうちに、鈴木に明治大の補欠が来たとの噂があった。
「鈴木!明治、補欠が来たの?」と尋ねると、
「ううん、『追加合格』。補欠じゃない。」まあ、経緯から考えて、明治大の不合格はちょっと自分も引け目を感じてたので、追加で合格が取れて何より!というより、『お前、授業料払わずに合格取れたのは明治だけやったから、俺に感謝してもらわないと!』というようなことを言った記憶がある。
 いよいよ国公立の入試日。東大の入試を終えて、進路に来た鈴木は結構自信あり気だった。
「数学解けたか?」
「三問完答で、あと部分点。」全部で五問だから、言う通りなら脈はある。
「東大の問題あるからやって見る?」ということで、鈴木に答えを書かせて解答を渡すと…。
「あれ?ここも…。」次第に口数が少なくなり、彼の血の気も引いて行ってるような気がした。結局、
「一問完答で、あと部分点…。」
「ん…。まあ、他の受験生もできてないかもしれないし、あとの科目もあるからね。」『気休めに過ぎないかも』と思いつつも、彼を慰めずにはいられなかった。
 試験発表当日、文理各一名ずつの受験した二人が東大まで、結果を見に行った。他の大学の発表は、ほぼ一段落がついていて、前期試験の発表は東大が最後だった。四人の高三の主任が、進路指導室に詰めて待っていると、まず文系の受験生から連絡があった。
「佐藤から連絡があった。ダメやったけど、後期受験はできると。なかなか難しいね東大は…。」佐藤の模試の判定結果はCで、東大合格には一番近い生徒だった。午後三時を回っても、鈴木からの連絡は無かった。
「鈴木は何してるのかな…。」こちらが焦れ始めた頃、電話が鳴った。

「はい、東西高校進路指導部です。」田所先生が取った。
「あっ、鈴木?で、結果はどうだったの?えっ!ダメだった?…」(あー、やっぱりダメだったか)と思っていると、田所先生はまだ電話を離さない。
「いや、それは違うだろ。どこ見てきたの?佐藤さんはダメで、後期は受けられるという連絡が入ってるから、そこは違うよ。もう一回見て来て。…いいから、もう一回行って見て来て。」電話が終わって詳細を尋ねると、
「鈴木は、『佐藤さんは通ってたけど、僕は落ちた』って言ってた。佐藤は、『前期はダメだったけど、後期は受けられる』と言ってきたから、鈴木は後期試験の方を見て来てる。だから、『もう一回見て来い』って言った。」
「えっ?鈴木どこに居るの?」
「ホテルに帰ってから、掛けてきてる。大学近くの公衆電話がいっぱいだったって。」それから夕方まで、全員が鈴木の知らせを待った。五時過ぎに電話が鳴り、田所先生が取った。
「鈴木?どうだった?…いいから、出してあげるから、早く言って!えっ!受かった?おめでとう!…」自然に拍手が起こった。
「何ごちゃごちゃ言ってたの?」と尋ねると、
「鈴木が、『先生、電車代出してくれる?』って言うから、『出すから、早く言って!』って言ったの。それから、『これ絶対間違いだから、僕は泊まって明日手続きをしてから帰る』って言ってた。」とのこと。ひとしきり笑いあった後、
「あいつ、先にこっちに連絡があって、結果知ってるのに、自分が見に行かされたと思ってない?進路に連絡なんか無いのにね。」と言うと、
「東大の発表の時は、何かドラマが起こるね。」と進路指導部長の長瀬先生。予備校の時にもいろんなことが起こってたようだ。
 結局、初年度の卒業生九十九名の中で、東大に行ったのは、大穴の鈴木一人。本命だった佐藤は早稲田も受かっていたが、慶應大学に行った。永森は前期の医大はダメだったが、B日程の医大に合格して、医学の道を歩んでいる。鈴木とは卒業後、何度か一緒にテニスして、飲みに連れて行ってあげた(もちろん、卒業生と飲むときは奢ってあげてる!)こともあり、
「お前、結局最後までクラブもやり切ったね。」って言ったことがあるが、
「先生がやれ言ったから!」と切り返された。正直、退部の話をされた時に『東大受けたいから、もっと時間が欲しいし…。』というような理由だったら、当時の彼の状況から言えば、自分も『仕方ないな』って、納得してたかもしれないけどね。まあ、いいか…。

カテゴリー: 随筆

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