《よっちゃん》

まえがき

 これは、死んだ弟に捧げるのではなく、僕の心の中で生き続けている弟のために捧げる伝記である。

[日記より]
僕は何かに憑かれたように三日三晩書きまくった

優しかったおまえのための鎮魂?
いいや、単なる僕の自己満足に過ぎない

まだ、おまえのこと考えると涙が止まらなくなる
感傷に浸ってるだけなのかもしれないけれど…

さて、今日は何から話そうか?
僕の優しかった弟の物語。
8:26 99/05/08

              一九九九年五月     
                            宮本 裕士

   優しかった弟へ

誕生

 弟、宮本義久は、昭和三十一年九月十三日に高知県土佐山田町の秦病院で生まれた。私自身の誕生日が昭和二十九年五月十四日だから、当時、二歳だった私は、確か父に連れられて病院に行き、弟の顔を見せてもらった。
「猿みたいな顔しちゅー(顔している)」遠慮のない子供の言うことだから、周りの人たちも笑って済ませたのだろうが、多分、可愛いものだと言い含められていたものが、意外に動物的な顔つきだったから、そういう言葉が出たのだろう。弟の第一印象についての、自分のコメントだけは、はっきり記憶に残っている。

よっちゃん

 二つ違いの弟は、『よっちゃん』と呼ばれて、みんなから可愛がられた。幼い頃の私は、それまで自分だけに注がれてきた母の愛情を弟に取られてしまうような錯覚を覚え、そんな嫉妬から、弟を虐めてしまったことも時々あった。
 私は弟のことを「よっちゃん」とか「よっちん」と呼んでいた。弟は私のことをずっと「兄ちゃん」と呼んでついてきた。今でも、にこにこした笑顔で嬉しそうについてくる小さい弟の姿を思い出す。

中町一丁目

 私が生まれたばかりの時は、家族は祖父の家で同居していたが、やがて〝中須の住宅〟と呼ばれる所に移り、私が小学校低学年の頃までは、夜になると、父母と弟はそこに帰って行き、おじいちゃん子である私だけ、主に祖父の家で寝泊まりをすることが多かった。祖父の家は土佐山田町中町一丁目という所にあり、小学校はすぐ近くにあった。昼休みなど、何度かご飯を食べに帰った記憶もある。
 当時の中町一丁目は、国鉄土佐山田駅の近くのメインストリートで、町内でスズラン灯が初めてついた場所である。午後七時をすぎても明るかったので、よく外へ出て、縄跳びや、ピンポン(ドッジボールを使って遊ぶもの)など、いろんな遊びをした。
 テレビもその頃は白黒が出始めたばかりで、値段も結構高かった。近所で一番はじめにテレビを備えたのは、恒石という八百屋兼牛乳屋の家だった。そこにセイイチ君という私より一つ年上の男の子が居て、みんなからは「せいっちゃん」と呼ばれていた。夕方になると近所の子供達が集まって、
「せいっちゃんとこへ行こう」と言ってテレビを見せてもらいに行くのである。
 せいっちゃんと私は仲が良く、二人でいろんな所に遊びに行った。弟を連れて行くことも無くはなかったが、連れていくと必ず〝足手まとい〟になるので「遊んじゃりや」と言う周りの言葉は、私にとっては「子守をしていなさい」と言われるのに等しかった。小学校に入る前の〝二つ違い〟は決定的な体力差があった。
 次にテレビを備えたのは私の所だった。祖父の家は、八百屋をやっていて、せいっちゃんの家とは洋服屋と小さな道を挟んでいるだけだったが、今度は家の方にみんなが集まって来だした。相撲中継(若 乃花、朝汐など)や、月光仮面、ナショナルキッド、七色仮面などの人気番組になると四、五人がテレビの前に陣取った。私と弟は、座っても怒らないような〝兄ちゃん〟を選んで、その膝の上に座らせてもらって、一緒にテレビを楽しんだ。

台風

 祖父の家付近は土地が低くなっているらしく、台風が来ると良く床下まで浸水をした。もちろん、〝メインストリート〟だから、道の両脇には結構大きな排水溝があるのだが、雨がたくさん降った時は、その排水溝から水が逆流してきた。
 それでも、台風が来たときは、大人達の心配をよそに、なぜか心は弾んでいた。学校が休みになったりすることも大きな要因かもしれないが、夜中に電気が消えろうそくの灯りで夕飯を食べたり、みんなで家の中に閉じこもってラジオを聴いたりと、台風に対して、みんなが一つにまとまることが、〝心ワクワク〟の原因だったように思う。台風が去った後の暖かい風や、抜けるような青空も好きだった。
 台風の時や雷が鳴っている時など、私達は懐中電灯を持って、二人で押入に入ってはしゃいだ。そのまま二人で寝てしまうこともあった。

兄弟ゲンカ

 中学校時代あたりまでの二つの歳の違いは、体力的にも知能的にも、結構大きいものがあり、些細なことでケンカをしては弟を泣かし、毎日のように父母に叱られた。弟が泣いてるのを見られたり、泣きながら弟が母に言い上げに行ったりすると、決まって『裕士が悪い』になるので、
「いっつも僕ばっかり怒られて、損や」と文句を言ったこともある。
「裕士はお兄ちゃんだから、我慢せなーいかん」その頃のケンカの原因のほとんどは、私のおもちゃを弟が勝手に取って遊んでたとか、分け合って食べる物のどちらが大きかったとかいうような他愛もないものだった。どう見てもこちらが悪い時には、もちろん謝るのも仕方がないと思ったが、そんな不合理な理由を付けられて、「弟に謝れ」と言われるのでは、やっぱり
(兄は損だ!)と思った。

骨髄炎

 私が小学校低学年の時、骨髄炎という病気で、弟が宇賀病院に入院したことがある。それまでも、相変わらず兄弟ゲンカをしてきたが、母に呼ばれ、
「よっちゃん、入院せなーいかん(しなければならない)と…」と言う言葉に、その時大切にしていたきれいなビー玉や、パン(メンコのこと)などをかき集め、病院に持って行った。当時の私の宝物である。
 病院へ着いて、ベッドに横たわっている弟に、
「よっちゃん、頑張りよ」と言った後、
「これ、あげる」と言って、その宝物を差し出した。当然、弟は受け取るものと思っていた。前日に、そのきれいなビー玉をめぐり、「貸してくれ」「いやだ」で兄弟ゲンカになっていたからである。
「えい(くれなくてもいい)」弟のその一言で、私の宝物はすべて色褪せてしまった。同時に、
(なぜ、昨日貸してやらなかったんだろう…)という後悔の念に嘖まれた。

東町上一丁目

 しばらくして、両親の商売の都合で東町上一丁目という所に引っ越し、家族四人で暮らすことになる。当時、両親は食料品や雑貨の卸売りと小売りをやっていて、住んでいた家の二階は段ボールなどに入った商品がたくさん積み上げられていて、弟とは、よく大きな段ボールの中に入って遊んだりした。

いじめ

 店はその住居兼倉庫からいえば、学校と反対側にあり、少し離れていたので、小学校から帰ると、家には誰も居ないというのが常であった。まだその頃は〝カギっ子〟というような言葉はなかったが、いわば私と弟は〝カギっ子〟の走りであった。
 新しい住居から学校までは一キロメートルちょっとあり、登校時刻はほぼ一定なので、同じ様なメンバーと一緒に登校することになる。ある日、母が私に、
「岩井君ゆうて知っちゅう?」と訊ねた。
「さあ…」と言うと、
「岩井君が『よっちゃんの足が太い』言うて、いっつもてがいゆうと。(いつもからかっているらしい)ちょっと気をつけちゃって。」
 弟は生まれつき足の甲が太く、運動靴も足の長さからいえば、より大きなサイズのものでなければ履けなかった。当時の小学校は、そのまま靴を脱いで上がるスタイルだったので、弟は夏でも靴下を履いて素足を隠していたが、身体検査や運動会など、裸足にならなければいけない時には特例はなく、白い運動靴の下の膨れ上がった甲は隠しようもなかった。岩井君はその身体的欠陥を突いてきたのである。
 後年、
「何で、よっちんの足は太いの?」と母に訊ねたことがある。母の答えは、母の血液型がO型で、私の血液型がA型のため、最初の出産時に母胎にA型の抗体ができ、次の出産(弟の出産)時、その抗体ができていたために、母子共に危険な状態になったのが原因だったと言うことであった。
 次の日の朝、弟と一緒に登校すると(一緒に登校する日と、別々に登校する日があった)果たして、その岩井君が現れ、登校途中で弟の足のことをからかい始めた。
「おまえの足、大きいねや」弟は言われるままにじっと耐えていた。岩井君は弟より一つ年上で、私より学年が一つ下だった。当時内気だった私はしばらく聞いていたが、岩井君はずっと止めないし、弟はうつむいたまま歩き続けていたので、さすがにやり切れない思いになってきた。
「もう止めちゃりや。(止めてあげろよ)」そう言うのが精一杯だった。もうすぐ学校に着くくらいまで来ていた。
 その後、その〝いじめ〟が無くなったとは考えにくいが、意地の悪い上級生の悪口に対しての兄の一言に、よっちんは嬉しそうだった。

ジュース

 小学校五年の二学期まで、私は内気で暗い性格だった。一度弟とケンカした後、母と弟が笑いながらジュースを作っていた。私は気が納まらなかったし、何か意図があるのだろうという猜疑心に駆られ、隙を見てジュースの一つに自分の唾液を入れた。ジュースを作り終わって、弟は、
「兄ちゃん」と言って持ってきた。そして、何も知らないまま、唾液の入ったジュースを飲もうとした。
「待って…」
(このまま黙って居れば分からない)一瞬そうも思ったが、弟がグラスを手にとって飲もうとした瞬間に、声は出ていた。驚いた様子の弟に、
「それ、唾が入っちゅう…。(はいっている)」どう言い逃れしていいのか分からず、頭の中がパニックになったまま、そう言ったと同時に私は観念した。弟はワンワンと泣き出し、私は母に叱られたことは言うまでもない。
 私が飲みかけのジュースを飲みきったかどうか、はっきりした記憶は残っていないが、残りの二つのグラスに入ったジュースは、飲まれないまま捨てられた。私はジュースを作り直したい気持ちで一杯だったが、その場の雰囲気はそれを許してはくれなかった。

部落児童会

 当時の小学校には部落児童会という時間があり、確か木曜日の六限目に、学年をまたがって、地区ごとに各教室に別れ、その地区の取り組むべき行事や代表者などを決めていた。当然、学年が違っていても、弟とは同じ教室になるのである。
 私が小五の時だったと思うが、部落児童会で弟と隣の席に座ったことがある。(座席は自由だったので、いつも弟と隣になるとは限らない。机はすべて二人用だった)地区担当は、明治生まれの白髪で口髭を生やした、生徒の間では『怖い』という噂のある山崎という教師であった。会自体は退屈だったので、私はその頃流行っていた小さな独楽を取り出して遊び始めた。弟が「それを貸してくれ」と言ったのだと思うが、弟がその独楽を無邪気に回し始めた時、
「コラ!」弟は山崎という教師に呼びつけられ、拳骨を食った。弟は泣きながら帰って来て、その時間中、隣の席でメソメソと泣いていた。私はその教師は怖かったし、〝自分でなくて幸いだった〟という思いも無くはなかったが、それ以上に、弟が可哀想でならなくなって、その教師をじっと睨み付けていた。

鏡野中学校

 中学校は、地元の鏡野中学校に進学し、クラブはブラスバンド部に入った。二年後、弟も同じ中学校に入り、同じクラブに入った。その頃は、店だった所(店は小学校からは遠かったが、中学校からは比較的近かった)の二階で寝泊まりをし、倉庫は他の場所を借りていた。
 倉庫には、いろんな問屋が出入りし、時々私達に小遣いをくれたりした。二歳違いの二人兄弟だったから、同じように小遣いをくれたが、口数が少なく、内気な兄よりも、物怖じせず、屈託のない弟の方が当然ウケは良かった。
 ブラスバンド部では私はトロンボーンを吹いていたが、弟にはトランペットを勧めた。トランペットは比較的安く手に入る楽器だったので、親に楽器を買ってもらい、しばらく練習していたが、腹式呼吸がうまくいかなかったのか、弟は脱腸になり、治療後、パーカッションに移った。弟の買ってもらったトランペットは私が譲り受け、高校、大学と愛用することになる。その頃流行っていたフォークギターも、弟から譲り受けたものを現在まで愛用している。
 小学校、中学校と同じ学校だったため、私達兄弟は、学校の成績が出る度によく比較された。
「僕はずっと兄ちゃんと比較されてきた」まだ弟が元気だった頃、夜中にビールを飲みながら、ポツリと話すのだった。
「そうやね。高校まで同じやったから」その時は言えなかったけど、振り返ってみると、一つだけどうしても弟にかなわなかったことがある。友達の数である。
 中学の頃、母に
「よっちゃんは友達が多い。毎日、知らん友達を連れてくる。裕士の連れてくる友達は、大体決まっちゅうから顔を見たら分かるけど」と言われた。
「ふーん」とは言ったものの、
(弟はそんなに親しくもない友達でも連れてきてるのだろう)と思ったから、次の日から、そんなに親しいとも思ってないようなクラスメイトを、何人かずつ連れてきて母に紹介した。でも何日間かでネタは尽きた。弟は相も変わらず、新顔の友人を、苦もなく連れてき続けたのである。
 トランペットをやっても、ギターをやっても、色々と器用にこなせたのは自分の方だったけど、多分、友達の数ではずっと弟の方が多かった。その時は、弟がクラスメイト以外の者達ともつき合いがあるとしか考えられなかったので、どうしても合点がいかなかったが、それは弟の温厚な性格、人柄のためだったと、今は分かる。思い返してみれば、彼の怒った顔は、私の記憶の中には残ってないのである。

追手前高校

 高校は高知市内の追手前高校に進学した。家は南国市内に土地を買って新築していて、高知市も学区内になったので、進学は比較的易しかった。(鏡野中学校は土佐山田町だったので、ほとんどの者が学区外となり、学区外からの入学はかなり難しい)弟も、『大丈夫やろうか』と心配されながらも、追手前高校に入学した。
 高校では、特に一緒に何かをしたといった記憶はない。家で弟が分からない数学の問題を、解いてやったくらいである。

火事

 私が大学二年になったばかりの確か五月初旬、ゴールデンウイークで高知に帰っていて、大阪に引き返して来てすぐに、『家が火災で全焼』という連絡が入った。私は家族の安否を確かめた。叔母の話によると、
「よっちゃんの髪の毛が焼けたけど、家族にけがはない」とのことだった。家に帰ると、ほとんど何も残ってなかった。家族は着の身着のままで逃げ出し、父母は祖父の家に居た。普段、商品の倉庫として使っている場所である。
 弟は高知市内の〝キリスト教婦人矯風会学生ホーム〟という所で世話になっていた。頭は丸坊主だった。父の話によると、『気が付くと辺りが煙だらけで、よっちゃんがまだ寝てたので、大声で起こし、すんでの所で逃げおおせた』とのことだった。
 弟は高三なので、大学受験の年だった。家に置いてあった私の物も、アルバムや写真などを含め、全て消失してしまったのだが、弟は教科書やノートまで失ってしまっている。丸坊主にした頭も含め、弟のことが気の毒でならなかった。

大学入試1

 弟の大学入試の時、一度名古屋に付き添って行ったことがある。確か、金波荘という古い旅館で、自分が立命館の地方試験を受験した時、二年前に世話になった所である。受験前日の夜だったが、十一時半を過ぎても宴会状態の部屋が近くにあって、寝付かれなかった。受験生ということは分かっているはずだし、空き部屋もありそうだったので、部屋を換えてくれと申し出た。ほどなく、仲居さんが来て、
「もう、本当に分かってるはずなのにねー。申し訳ありません」と言って別の離れた部屋へ床を用意してくれた。それから私は十二時過ぎくらいに寝付いたが、翌朝、
「昨夜寝られた?」と弟に訊ねると、
「この部屋キーキー音がして、あんまり寝れんかった(寝られなかった)。前の方が良かった」と言うことだった。
 結局弟は、名古屋市立大学の薬学部は落ちて、浪人をし、医学部を狙うことになる。

大阪暮らし

 私の勧めもあり、弟は大阪で浪人することになる。私は適当な二部屋のアパートを阪和線沿線の長居で見つけた。長居は交通の便も良く、大学にも近いので理想的だと思った。家賃は月一万二千円(共益費、光熱費は別)、トイレは共用で風呂はなし、電車が通るとガタガタと揺れたが、慣れれば平気で寝られることも分かった。四畳半二間のうち線路に近い東側は私の部屋とし、隣のちょっと暗い部屋を弟が使うことになった。
 弟はYMCAという予備校の試験を受け、土佐堀校に通うことになる。共同生活のメインは、〝買い物をして来て晩飯を交代で作る〟ということぐらいで、後は通っている所も違うし、あまり干渉しないようにした。
 しばらく一緒に暮らしているうちに、日曜日ごとに弟がどこかへ出かけていることに気付いた。
「どこへ行ってんの?」と聞くと、
「教会。行ってみる?」弟は地下鉄の定期券を持っていたので、確か土佐堀近くにある教会まで連れて行かれた。
「キリスト教関係の寮に居たら、日曜ごとに礼拝させられるの?」と訊ねると、
「いや、あそこは別にキリスト教の信者でなくても入れるし、強制されてた訳じゃないけど」と言うことだった。
 私自身は物理を選択していることもあり、特に信仰心は無かったが、映画などでしばしば見る機会がある〝教会〟という場所のイメージを、実際の教会に行って確かめたかったのである。
 教会では司祭さんのお説教を聞いて、讃美歌をみんなで歌った後、帽子が回ってきた。
「何?これ」
「お金入れて、まわすの」弟は、お金をいくらか入れて、次の人に帽子を回した。自分がよっぽど恵まれてないかもしれないと思ったが、もっと恵めれてない人のために、私も少しだけお金を入れたような気がする。(親から仕送りを受けている学生の身分でもあったから、お金を入れないで回したかもしれない。どうしようかと悩んだのは事実)

大学入試2

「どこ受けようかな…」
 現役の時は、さんざん迷った挙げ句に、
「やっぱり自信がないし、薬学でもいい」と言って薬学部を受験した弟。一年間受験勉強をして、今度は医学部に照準を合わせる。
「血見ても平気?」
「うん」
 元来、血や、傷口などを見ると背筋がぞっとして、身がすくむ自分に対して、弟は度胸が据わっているらしい。加えて、過去に骨髄炎や脱腸など、医者の世話になる機会が結構多かったのも、弟に〝医師への道〟を決意させた大きな理由だったのだろう。
 家の経済的な事情から、〝医学部だったら、国公立のみ〟という制限があったので、大学受験は年に二回で終わりだった。もう一つの受験大学の記憶は定かではないが、一つは奈良県立医科大学を受験した 。私は、
「そこは定員も少ないし、並んだら奈良県内の受験生を優先的に取るはずだから、止めといた方がいいんじゃないか」と言って反対したことを覚えている。結局、この年の受験は失敗だった。弟は、
「勉強の仕方が分かったから、宅浪をする」と言って、二年目は大阪を引き上げて高知に帰って行った。
 その年、奈良県立医大の不正入試が発覚し、五月頃になって、いろんなメディアで奈良県立医大の話題が報じられていた。もちろん追加入学などの措置は採られなかった。
(定員が五十人くらいだから、四、五人だとしても大きいな。もし、正常な入試がされていたら、よっちんは…)などと考えたりしたが、弟は何も言わなかったし、そのことについて、その後弟と話したこともない。

宅浪

 それから半年間、弟は宅浪生活を送る。
「よっちゃん見よったら、可哀想になってくる」と母。
「裕士とちごうて(違って)、よっちゃんは詰めてぎっちりやるから…」
「ふーん。僕やったら、ラジオ聞いたり、テレビ見ながらやったりするからねー」
「そうよ!」夏休みで帰省したときのことである。周りが『息が詰まりそうになる』のだそうだ。そんなことを知ってか知らずか、後期、弟は高知市内の予備校に通うことにしていた。当時、市内には土佐塾予備校、綜芸塾予備校があって、弟は後者を選んだ。
「土佐塾予備校の方が駅に近いし、良いんじゃないの?」と言うと、
「通うのは、高知駅に自転車置いとくから」私自身も高三の夏に夏期講座を受けるため、綜芸塾予備校へは国鉄と自転車で通った。でも、それは単に〝土佐塾予備校はもう一杯になって、申し込みが締め切られているらしい〟というクラスメイトからの情報で、友人と一緒に綜芸の方に申し込んだだけだった。
「まあ、自転車で行くのも気晴らしにはえいか(いいか)!」後から聞くと、二つの予備校では、授業料が違っているらしかった。

合格体験記

 その年度の受験では、弟は滋賀医科大学に合格。晴れて〝医師の卵〟となった。私は、特に目的もないまま大学を出て、通信教育の編集部に入り、数学や理科の編集を担当した。その時一度、弟に原稿依頼をしたことがある。合格体験記である。弟は予備校時代のほのかなラヴストーリーを書いてきた。
(なかなか、やるじゃない)文章表現力も、内容自体も結構いけるんじゃないかと思った。今は、弟の書いた文章をはっきりとは思い出せないが、もしかすると、どこかに残っているかもしれない。

滋賀

 京都は墓参りや受験でよく来ているけど、滋賀まではあまり足を運んだことがなかった。編集の仕事をしていた時に、大津駅前の喫茶へ数学の原稿を取りに来たくらいである。弟が医大生の時、彼の招きで石山寺に連れていってもらったことがある。日本一大きい琵琶湖も、確かその時初めて見た。弟は単車の免許を取っていて、排気量二百五十CCのヨーロピアンスタイルのオンロードバイクに乗っていた。私は当時は免許は一切持っておらず(その時は取るつもりもなかった)、単車のダンディム走行も知らなかったし、バイクの後部シートでどこにつかまって良いのかも分からずに、怖い思いをしたことを覚えている。

瀬田駅

 大阪で働いている時、弟から、
「お金が無くなったから貸して」という旨の電話を受けた。
「一時間半後にいけると思うから」と連絡して、お金(確か一万円)を持って出た。ほぼ予定通りの時間(約束の時間の十分くらい前)に瀬田駅に着いて、改札口を出ずに待っていた。定期券で入っていたので、改札口を出るとお金を取られるからである。(その頃の国鉄は、関西の他の私鉄と比べると、理不尽なくらい運賃は高かった)
 瀬田駅は、普通列車しか止まらない小さな駅で、改札口も一カ所しかない。上りも下りも十五分間隔くらいで、いくつかの電車が来て、乗り降りする人たちがホームを行き交った。私は改札口の外を眺めていたが、待ち合わせ時刻を半時間以上過ぎると、さすがに腹が立ってきた。
(金を貸してくれと言うから、せっかく滋賀まで出てきたのに、何であいつは来てないんや!)
(もう金策も片が着いたのかもしれん)そう思うことにして、改札口を出ずに大阪まで帰って来た。大阪の外回り環状線に乗ってボーっと考えていると、何だか後悔してきた。
(なぜ来るまで待ってやれなかったんだろう)って。しかし、もう引き返す気力も、勇気も残ってなかった。長居のアパートに帰り着いて、連絡をすると、弟も定刻よりも前に来て待っていたそうであった。
「けど、ずーっと改札口から見てたけど…」弟は改札口の内側からは見えない位置で待っていたそうだ。
「ごめん…。なんとかなる?」
「うん…」
(あのとき、あそこで改札を出ていれば)と思うと、自分のした判断に憤って、すごく悲しかった。

進路

 弟が、専門に移る前こんな会話を交わしたことがある。
「どこの研究室に行こうかなー」
「精神科なんかは?」
「精神科は一番難しいんよ」
「外科はやめといた方がええでー。はよー老けるよ」
「…」
「まあ、内科か、小児科にしといたら?」
その次に会った時、
「結局どこにしたん?」
「脳外科」
「えっ!おまえ、俺より先に老けるぞ」
 もちろん、外科医がすべて早く老けるとは言えないし、その選択が彼の寿命を縮めたという、はっきりとした因果関係が確認された訳でもない。でも、口数が少なく生真面目な弟は、仕事のストレスをまともに受ける可能性は大きいような気はした。
 あの時はまだ独身だった弟も、やがて幸せな家庭を築く。博士論文を完成させ、脳外科の専門医の資格も取り、これからという時に逝ってしまった弟。優しい家族に支えられて、おそらく家庭が彼の心の安らぎの場になっていただろうことは容易に想像できた。

AVM(脳動静脈奇形)(Arteriovenous Malformation=AVM)

 平成九年二月、私は自分の脳に異常があると知らされる。他の先生と話している内に職員室で倒れたというのだ。
 その時、私はかなりカリカリとしていた。自分のしなければならない仕事(結構、〝土壇場〟の状況という認識があった)をやっている時に、インターラプションが入ったのだ。それも「そんなもの、自分で探せよ!」と言いたくなるような筋違いのことで、おまけにその後ろに〝待ち行列〟が見えていたのだ。現実逃避をしたかった状況だったのは事実で、その後の記憶は確かに定かではない。保健室まで運んでくれた先生の話を聞くと、
(そういえば、そんなこと言ったような気がする)という程度である。
 保健室のベッドで、気がついた時、保健の先生に顔をのぞき込まれ、
「先生大丈夫ですか?覚えておられますか?」と訊ねられた。
「今何時?授業があるんだけど」と言うと、
「いや、先生、もうすぐに病院に行かれた方がいいと思います」と言うことで、自分の車で、紹介された近森病院に行った。
 病院では山岡という神経内科の先生の診察を受けた。「今日は帰る」という私の言に、
「僕はこのまま入院した方がいいと思うんだけどなー」
「そうしましょ(このまま入院しましょ)」執拗に即時入院を勧める彼の言に根負けした形で、私は着の身着のままで病院に留まることになる。何の連絡もしないまま病院に泊まったので(自分は病院から連絡が行ってるつもりだったが)、家の方ではちょっとした騒ぎになったらしかった。
「お母さんから連絡いただいたんだけど、弟さんが脳外科の先生だって?」
「ええ」次の日、山岡医師に家の方から連絡があったらしかった。
「じゃ、弟さんにはデーター送っておきますから」ということになり、CT(Computed tomography)やMRI(magnetic resonance imaging)などのデーターが脳外科の医師であった弟のもとに送られた。
「AVMは γ ナイフという手術がいいんじゃないかな。異常な血管の場所とか大きさによるけど、兄ちゃんの場合は、右の前だし、大きさもそんなに大きくはないから、一番適当だと思うけど」
「今まで四十二年もこの状態で生きて来たんやから、今更いいんじゃないの?」
「いや、車を運転してる時とかに症状が出たら大変やで。今はまだ兄ちゃんの場合は、出血とか無かったから良かったけど」私は、弟の言う通りγナイフを受けることにした。γナイフの手術ができる施設は、今のところ、近くでは大阪か、名古屋くらいしかないそうで、
「大阪の方が、知ってるし、いいやろ?」と言うことで、大阪で手術をしてもらうことになった。病院への連絡とか手続きとかすべて弟が手配してくれ、平成九年四月十日に桜宮にある大阪市立総合センターという病院で手術を受けることになった。
 弟が脳外科医になると言った時、まさか自分自身が弟の世話になるとは思わなかった。

日野記念病院

「四月の手術の前にうちの病院で検査しといたら?」という弟の勧めで、大阪で手術を受ける前に弟宅で厄介になり、弟の勤務している病院で検査を受けることになった。その帰りに、弟はスピード違反で挙げられることになる。私は弟が気の毒なのと、交通取り締まりのあり方に合点がいかなかった(〝何のための取り締まりか〟という目的がはき違えられているような気がした)ので、その時次のような文章を書いている。

[交通取り締まりのあり方についての提言]

 私の弟は脳外科の医師をしている。4月初旬、私は検査のため、一週間程滋賀県の弟宅に厄介になった。
 検査当日は弟の出勤にあわせて病院に入り、弟の車で帰ることになった。弟の勤めている病院までは、道の混み具合にもよるが、車で一時間くらいはかかる。当初は
「3時頃帰れるから、一緒に行って待つ?」
「うん。まあ病院の周りをぶらぶらしてたら、いいやろ。コンピューターも持って行くし」
 ところが、その日に急な手術が入って事情が変わった。今思えばそれが事の起こりであった。
「遅くなりそうだから、先に帰る?」と、弟。
「まあ、待ちきれなくなったら…」とは言ったが、コンピューターもあったので私は待つことにした。
 弟が帰ってきた時、七時はすでにまわっていた。
「あれ、まだ待ってたの?」と弟。
「お疲れさん。じゃあ、帰ろうか」
 駐車場に着いたのは、午後八時。ここ一週間ほどは、いやというほどの菜種梅雨だった。それが今夜は昨日まで続いていた長雨も止み、珍しく晴れ。北西の空にはヘールボップ彗星が見えていた。
「今日は見えるね。けど、フィルム買ってないやろ?」弟は天体望遠鏡を買ってから、まだ一度も使っておらず、一眼レフと四百ミリのレンズを持っているから、機会があれば(それまでは雨とか、帰りが遅くなりすぎたとかいう理由で、機会に恵まれなかったらしい)星も見てみたいし、彗星も撮ってみたいと言っていたのだ。
(途中にフィルムを売ってる店があって、早く帰りつければ撮れるかもしれない)そう思った。
「遅いから、一号線を通って帰ろう。もう、空いてるはずだから」
 一つ目の交差点にかかったとき、信号が黄色になった。
「俺やったら行くけどな」右折にもかかわらず、弟は止まった。彼はセイフティードライバーなのである。(不肖私めも、運良くそうなっているのであるが…)
 その角を曲がってもう少し進んだところで、一台の車がすれ違いざまにパッシングを二度した。もう一回…。
「取り締まりか何かやってるかもしれん」
「あっ!」少し遅かったのである。指示によって、車は左の空き地に誘導された。
 二十五キロオーバー。罰金は一万八千円、三点の減点だそうだ。手術で遅くなった報いがこれだとすれば、同情に堪えない。私は慰めの言葉もなかった。
「二十キロくらいじゃなかった?ドップラー効果で測定してるんだから、3キロくらいの誤差は当然出てくるはずやけど」
「そんなに出してないって言ったけど、だめだって言われた」
「おかしいね…」
 もちろん決まりを守らないことが良いというのではない。しかし、交通取り締まりについて考えると、いろいろと疑問が出てくる。
 まず、警察官が一人もかかったという話を聞かないこと。日本の警察官がいかに優秀といっても、何か不思議な気がする。『ねずみ取りに引っかかっても見逃されているか、事前に取り締まりの情報が漏れているんじゃないか?』と邪推もしたくなる。
 権力を持たれている方々(少しずれるが社会的に高い地位にある方々)なども同様である。そういった方々は往々にして〝より大きな権力を持っておられる方々に対しては至って弱い〟という特性があるのだが、警察権力はどうなのだろうか?
 交通取り締まり自身は?
 一度テレビで、交通取り締まりをしている警察官にレポーターがインタビューをしているのを、見たことがある。
「捕まった方についどう思ってらっしゃいますか?」
「事故にならなくて良かったと思っています」誰もが納得してくれそうな、『優しさあふれる』答えだが、思い返して欲しい。そもそも交通取り締まりは、事故が起こる確率が高いような場所では実施されていないのである。(少なくともそんな場所での取り締まりに、私は出くわしたことがない)だからみんな安心してスピードを出してしまう(取り締まり側の思うつぼ)と言えなくもない。
 取り締まりの行われる場所は、だいたい決まっている。追い越し可能な、交通量の多すぎも少なすぎもしない、左側に引き込めるスペースのある(昼間なら隠れるスペースのある)箇所である。
 ラッシュ時はやってない。雨や雪の日もまずやってない。だいたい、ドライバーが全員、標識に標示されている制限速度を守って走ったら、日本国中の交通状況がどういうことになるか位、車を運転しない者でも分かるはずである。
 本当に事故を無くすために取り締まりをしようと思っているなら、スピードを出したら危険な場所で取り締まるべきである。少なくとも、同じ場所でやるにしても雨の日にやるのが筋なのではないか?同じスピードを出しても、事故の起こる危険性は悪天候の時の方が高いのだから。(多分、しんどい割には〝収入〟は減るだろうが…)
 現在のスピード違反の交通取り締まりは、〝取り締まる側の事情〟だけによって、場所とか日時が決められているのではないだろうか?スピードを出してもさして危険と思われない天気と場所で、杓子定規に決められた速度よりどの位オーバーしているかを測定し、〝お客さん〟(往々にして善良な市民の場合が多い)から罰金を徴収する。本当に交通事故を減少させるためのスピード違反の取り締まりなら、もっと他にやり方があるんじゃないかと思う。少なくとも交通安全(事故を未然に防ぐこと)を目的として行う取り締まりであれば、TPOを〝取り締まる側の都合〟から考えて実行するのではなく、〝こういった場面が危ないから取り締まる〟といったものであって欲しいし、取り締まり情報を内部の者にあらかじめ漏らしておくとか、お偉い方々はお構いなしなどといったアンフェアーなやり口は避けるべきである。『反則金をたくさん取って、それを事故防止に役立てよう』などといった考えは、どこか間違っていはしないだろうか?(警察には反則金の〝ノルマ〟があるという噂まで耳にするのだが…)
 日本は法治国家であるから、法律に則っての取り締まりの存在の是非を論議するつもりは毛頭ない。しかし、その法律、たとえば道路交通法がなぜ必要になってきたかを、元に立ち返って、もう一度考え直して欲しい。道路補修の諸経費を稼ぐことではなく、ましてや取り締まりに必要な装置一式を購入するための諸経費の捻出などではないはずだ。『昨年の交通事故による死亡者が一万人を割った』ということが、何年ぶりかの記事として取り上げられているような現状では、お寒い限りである。もちろん我々ドライバーの運転技術、モラル等の向上は、我々サイドでの当然の努力目標、及び反省点ではあるが、我々の税金、反則金などは、もっと有効に使って欲しいのである。
 誤解のないように繰り返しておくが、速度取り締まりをやるなということではない。もっと事故を無くすのに有効な取り締まりを、フェアーにやって欲しいということである。確かにドライバーにも許し難いような者もいるが、私は〝ほとんどの者は良識がある〟と信じている。私の家は大通りに面しており、朝の通勤時、私は向こう側の車線に入らなければならないが、ほとんど毎朝、道を譲ってくれるドライバーが居るからである。
(人間って捨てたもんじゃない!)その度にそう思いうれしい気持ちになる。交通取り締まりが、しっかりしたコンセプトをもって行われれば、それだけでも取り締まる側の意図を汲んで努力するドライバーが出てくると思うのである。
 〝取り締まる側〟と〝取り締まられる側〟は敵味方ではない。目指すのはどちらも『無事故という目標』なのである。
(お互いにその目標に向かって、効果的な努力をしていければいいのに)と思う今日この頃である。

ガンマナイフ(異常な血管にガンマ線を当ててその血管をつぶす放射線療法)

 弟はその後もAVMについて色々と教えてくれた。そして、
「手術の日は、行くわ」
「いいよ。仕事もあるやろ」
「まあ、僕もγナイフは見るの初めてだし」と言って、手術時間に会わせて出てきたくれた。
「弟さん、見ててくれたよ」と、手術後担当の医師から聞かされた。手術中は当然話せなかったし、弟の姿を見かけただけだったけど、やっぱり心強かった。
 その後、手術の後遺症で、髪の毛が抜け出した時も、弟に電話をかけて不安な気持ちを取り除いてもらった。

膵臓癌

 平成十年の正月は帰省し、高知で過ごす予定だった弟が、急に調子が悪くなって来られなくなった。急遽、こちらから弟宅に行くことになり、父母と娘を連れて、弟宅に向かった。まだ、その時は膵臓が悪いようだとしか分かってなかった。正月は
「飲めんけど、ごめんよ」と気を使う。
「いい、いい。しっかり治さなー」膵臓の病気自体、〝手術をして助かる確率が低い〟ということは聞いたが、まさか弟の病気が癌だとは思わなかったし、思いたくもなかった。弟の病気が癌だと知るのは、一月二十一日であった。

[日記より]
一月二十一日九時八分。今日は忘れられない日になりそうだ。弟が癌。母親の目は涙に潤んでいた。厄年に僕は君に助けられ、厄年に君は膵臓癌の手術を受けた。君は僕の手術に立ち会ってくれたのに、僕は何もしてあげられない。自分の無力さ。小さい頃、いくつもの病気を経験し、死線を越えてきた君は、医師という道を選び、幸せな家庭を築いた。幾度となくケンカもしてきたけど、君は僕よりも陰険でなく、多分、僕なんかよりもずっと優しい心を持っていた。いやだ。君が僕等をおいていくなんて、絶対にいやだ!
9:30 p.m. Jan.21 ・8

Eメール

 弟はマッキントッシュのコンピューターを愛用していて、インターネットのメールソフトの設定を二人でしたことがある。大阪の叔父の征夫さんから、癌と診断されて後、五年以上生存している人の話を聞いたので、早速Eメールを出してみた。

[Eメールより]
 征夫さんが丸山ワクチンのことを言っていました。もう、聞いてると思うし、立場上使いにくいものがあるかも分かりませんが、〝念には念を〟ということもあります。まだ、癌という病気については誰も完全には分かってないのだし、何でも〝良い〟と言われているものは検討してみては?家族や両親のためにも、生き続けなければならない立場です。しっかり戦って、元気になって下さい。(知っているかも知れないけど、おふくろは八王子に毎日願をかけにいってるらしいし、親父は酒をやめているらしい。征夫さんから聞くまでは知らなかったけど…)
 別の話ですが、「あいつ(征夫さんの奥さん)、ボケてきてんで。よっちゃんに聞きたかったんやけど…」と征夫さんが言っていました。征夫さんは、最近由美子さん(征夫さんの奥さん)を怒らないようにしているそうです。もし、詳しい話ができるんだったら、色々教えてあげて下さい。

 このEメールに対しての返事はもらわなかったし、その後何度か弟に会った時も、その話題には触れなかった(自分自身、医者の〝縄張り〟のようなものの関係で、触れてはいけない話題かもしれないと思った)が、葬儀の当日、叔父から、
「よっちゃんが痴呆のことでは、色々パンフレットを取り寄せてくれよった」と言う話をされて、
(ああ、読んでくれてたんだな)と分かった。

一年四カ月

 その後、弟が亡くなるまで、何度か弟宅を訪れ、日増しに痩せていく弟を見て悲しい思いをした。後で聞くと、弟はみんなに心配をかけまいと、痛みをじっと我慢していたこともあるそうだ。こちらはこちらで、やり切れない無力感を感じていた。
 今年(平成十一年)の四月、入院していた弟の見舞いに病院に来た時、自分が入院した時に重宝した小型コンピューターlibretto20にWindows98を入れたものを、弟が使えるように設定をし直して、持参した。
「これ貸しちゃおか(貸してあげようか)」と言うと、
「いい」librettoはベッド上で仰向けになっても使えるコンピューターだから、暇つぶしには最適(もし電話回線でつなげばインターネットにも接続できる)だと思った。もちろん、弟が骨髄炎で入院したときと同じように〝あげる〟つもりで持ってきたのだが、やはり、その時と同じように断られてしまった。librettoはその後、今日(五月十日)まで電源を入れられることはなかった。

[日記より]
あの時も何をして良いのか分からなかった。多分…。でも、自分が手術で切られるのは絶対いやだなと思ったし、弟は痛くないんだろうか?などと、漠然と考えた。今も立場は同じ…。手術後痛がっていたと聞いたとき、かわいそうに思ったし、今度だって…。自分の一番大切にしていたおもちゃさえ、弟にあげても良いと思った。神様に祈ってたはずだ。今心の中で祈っているように。最近神様なんて考えたこともないのに…。
0:10 a.m. Jan.26 ・8

死の淵へ向かってカウントダウンされていくのって
いったいどれほど恐ろしいのだろう?
意気地なしの僕には想像もつかないほどのことだ。
0:27 a.m. Jan.7 ・9

何もできないもどかしさ
兄弟といっても他人なのだから
痛みを分かち合うなんてこと
出来やしない
親子だってそれは同じことで
母は多分
痛みを代わってあげたいと
思っているのだろう
厄年なんて信じてやしないのだけれど
たくさんの人が不幸になる巡り合わせって
確かに
あるのかもしれない
3:19 a.m. Mar.14 ・9

一人で眠られない夜
派手な音楽ガンガンかけても
気分は落ち込んで行くばかり

こんな時君が居てくれたらね
少しは明るくなれるかも

考えたってどうしようもないから
もう考えるのは止めよう
僕が心配しても仕方のないことなのだから
(もう考えるのはよそう)
分かってはいてもだめなんだね
悲しいね辛いね
99/03/15 午前 1:13:11

臨終

 五月一日。学校に母から電話がかかってきた。授業中だったため、かけ直すと、「父と相談して、こちらに来てくれ」ということだった。父と娘を連れて、滋賀医科大学の病院に向かった。酸素吸入マスクをつけて、苦しそうに荒い呼吸を繰り返していたが、容態が安定していたし、そばに居ても何にもできないので、後は看護婦の資格を持っている理嘉子さん(弟の嫁さん)に任せて、弟宅に帰った。
 次の日、父母は先に病院に行っていた。午前十時頃、母から電話があった。
「よっちゃんが、さっき息を引き取ったき(引き取ったから)、すぐ来ちゃって(来てあげて)」呆然とした。もう出ようとした矢先のことだった。
(誕生にも、臨終にも立ち会えなかった…)母は両方立ち会った。でも、両方立ち会わないことの方が普通なのだ。
[日記より]
五月二日。おまえは逝った。

「よっちゃん…」

促されるままに
黄色く痩せ細った手を握って
呼んだ名前に

「あぁー、はぁー」

酸素吸入器をつけたまま
呻きとも返事ともつかぬ
吐息で
必死に答えたおまえ。

確かに反応したのだ。

「よっちゃん、がんばってよ。」
父が投げかけた言葉。

僕はそんなことは言えなかった。
生来頑張り屋だったおまえだもの
もう充分、癌との戦いはしてきた。

(もう頑張らなくっていいよ…。)

涙が出そうになってきた。

膵臓癌で
余命〝一年足らず〟と診断されてから
はや一年と四カ月にもなる。

「もう、頑張るの止めようかな…」
きっと良くなると信じている幼子達には言えず
最愛の妻だけには漏らした弱音。

悔しすぎる、悔しすぎる!

母や僕たちの前では〝心配させたくない〟と
ずっと痛みを堪えていたことを僕は知っている。
そうして、おまえが弱音を吐いて
おまえの最愛の妻を泣かせたであろうことも。

おまえには何もしてやれなかった。
小さい頃はよくケンカもした。
いつだって僕がおまえを泣かして終わった。

「兄ちゃん、兄ちゃん。」
そのくせ、おまえは
性懲りもなく僕の後をずっとついてきた。

「僕はいつも兄ちゃんと比較されてきた。」
医師として幸せな家庭を築いたおまえが
いつかボソリと言った言葉。

小学校、中学校、高校。
ずっと同じ学校を選んできたおまえ。
中学で僕がブラスバンド部に入ったら
おまえも同じクラブに入る。
高校で僕が理数系を選んだら
おまえも理数系に進む。

二つ違いの弟であるおまえは
必然的に二つ年上の兄である自分と
常に成績では比較され続けてきたのだ。

何につけても自分の方が上でなければ気が済まなかった僕に
「友達は裕士よりも、よっちゃんの方が多いね。」
中学時代、母が笑いながらポツリと言った言葉。

「広く浅くと、狭く深くの違いじゃないの。」

その後、友達とも言えないようなクラスメイト達を
取っ替え引っ替え、意識的に家に連れてきて
母に紹介したりした。
でも、おまえの周りにはそれよりも多くの友達がたくさん居て、
おまえは苦もなく、新しい友達を毎日連れて来るのだった。

ギターやトランペットなんかも器用にこなせたのは僕の方だったけど
多分、友達の数だけは、おまえにはずっと勝てなかった。

そんなおまえのために
お通夜にも葬式にも
たくさんの友人達が顔を揃えてくれた。

医師という職業柄、癌告知はせざるを得なく
〝余命一年〟という想像を絶する恐怖。
その恐怖を抱きながらの戦い。

おまえの一年四カ月を僕は忘れない。
五月二日という日を僕は決して忘れない!
a.m.2:29 May6 ・9

あとがきにかえて

 葬儀の時の挨拶を頼まれ、言いたいことが山ほど会ったけど〝二分くらい〟ということで、それなりに自分の頭の中でまとめていた。しかし、お通夜の時には涙で言葉が詰まってしまったので、葬式の時には泣かずに済むような事柄だけをワープロにまとめておいて喋った。これからも現世に残って生きていかなければならない者のためになれば、幸いだと思った。

[ご会葬御礼]

 本日は、足下の悪い中、弟義久の葬儀にご列席いただき、また、お心付け、暖かいお言葉などいただき、ありがとうございました。
 弟義久は、温厚な性格の努力家であったため、友人も多く、私自身、彼が怒った姿はあまり記憶にありません。
 弟は小学時代に骨髄炎で入院し、生死の縁をさまよったたことがあります。その経験が大きかったのだろうと思いますが、医学を志し、滋賀医科大学で脳外科を専攻し、医師の道を進みました。
 二年前に私のAVMが発覚したとき、ガンマナイフの処置が妥当だろうという診断を下してくれたのは脳外科の専門医であった弟でした。いわば、私の命の恩人でもありました。
 その後、今度は弟の方が膵臓癌だと分かり、後一年持たないだろうと診断されました。医師という職業柄、癌告知はせざるを得なく、明言しなくとも、膵臓癌という病気の性格上、〝余命後一年程〟という恐怖を抱きながらの生活は、想像を絶するものがあったのではないかと思います。
 がんばり屋だった彼は、一年四カ月癌と闘い、五月二日にその命を閉じました。
 弟と何らかの関わり合いがあった列席のみなさんにお願いいたします。最愛の弟は最愛の妻子を残して旅立っています。どうか皆様方の暖かいお心をもって、温かい目で、残された家族を見守ってあげて下さい。
 本日はどうもありがとうございました。

あとがき

 本当は、書きためていた詩や絵を、詩画集として、いつか出版しようと思っていました。このような形の出版をせざるを得なくなってしまったことは、もちろん本意ではありませんでしたが、この出版に際しても、本当にいろんな方々のお世話を戴きました。
 あとがきは書かないつもりでしたが、この本の出版に携わっていただいたみなさんに、この場をお借りしてお礼申し上げます。とりわけ、海流のまとめ役でいらっしゃる江部俊夫さんにはこの本の校正や、内容に対するご意見もいただき、一方ならぬお世話になりました。一つの本の出版という、
〝ささやかな事業〟に対しても、いろんな方のいろんなお力をお借りしなければならないということがよく分かり、〝DTP(コンピューターの出版ソフト)があれば出版できる〟と簡単に考えていた自分の思い上がり(無意識ではありましたが)を反省しています。本当にありがとうございました。

                            平成十一年五月十九日

                                        宮本 裕士

カテゴリー: 随筆

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